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評者◆小野沢稔彦
イスラエルから遠く離れて?――エラン・リクリス監督『シリアの花嫁』
シリアの花嫁
エラン・リクリス監督
No.2907 ・ 2009年02月28日




 この境界を越えたら、二度と還ることはできない。画面の終わった後で――現実は何も終わっていない――浮き上がる字幕は、この世界の中に生起するパレスチナの過酷な現実を鮮やかに浮かび上がらせる。イスラエルの国家テロによる、パレスチナの民衆殲滅を図る――この間、ガザで行なわれていることは、ナチスによるジェノサイドを再現した民衆絶滅以外の何ものでもない――軍事行動が行なわれている日々に、パレスチナの現実から生じた、深い陰影をおびた家族の物語である『シリアの花嫁』(エラン・リクリス監督)を観るのは、何とした皮肉なのだろうか。家族の物語の一切を絶滅させる殲滅戦の進行の中で、パレスチナの日常を描く映画を観ることなど、虚しいとしか言いようのない絶望的な想いの中で、しかし、観ることとは何か。それは可能なのか。
 イスラエル人監督E・リクリスの『シリアの花嫁』(脚本は、リクリスとパレスチナ系イスラエル人、スハ・アラフの共同)は、パレスチナを舞台に「国境」を、「境界」を、そして「国家」を問うに際して最良の映画=テキストとして、世界の現実の中にある境界とそこに生きる人々の生のあり様を重層的に紡ぐ物語として、私たちの前にあると、ひとまずは括ることができる。しかし、そんな修辞的で非運動的な作品として、この映画は留まっているのだろうか。映画などイスラエルの絶滅戦の前で踏み越えられ、無視されたままに蹂躙されているのではないか。映画など可能なのか。
 映画は、イスラエルに一方的に軍事占領されているゴラン高原の小村に居住するパレスチナ人一家――彼らは自らの意志でイスラエルという「国家」に帰属することを拒否し続けているが故に、そのアイデンティティカードに〈無国籍〉の印が押されている――の、ある儀式をめぐる数日の出来事を鮮やかに描き出すことによって、その人々の生とその軌跡が、現実の世界政治という不正の沸騰点と、いかに結びついているかを浮上させる。私はあえて〈儀式〉と書いたが、それはアラブの民衆にとって最も大きな儀式の一つたる結婚式なのである。私たちは単純に、結婚式は究極の幸せの日であり、祝福すべき日であると信じこんでいる。しかし、ここイスラエル占領地での結婚式という儀式は――一族と地域の人々が集まる故に――同時に、一族と民族の苦悩の歴史と民衆虐殺の記憶とを、改めて追体験する日とならざるをえない。祝いの場とは、一族の離散や様々な諍いの内実を再浮上させ、集約的に問い直される場となるだろう。まして抑圧者にとっては、民族の記憶が集団的に語られる結婚式などという儀式の場は、最も警戒を要する日であるのだ。こうして結婚式という儀式の場では、パレスチナ問題の核心が浮上する。
 そこで描かれる様々な出来事、例えば父性と民族性のあり様、そして慣例化された規範。母性と日常性、そして性差。許されざる結婚と一族からの離脱。更に飛び交う多くの言語、言葉はその時、抽象的にあるのではなく情況そのものを表象する、等々。ここで浮上する一つ一つの物語は、まさにイスラエルの軍事占領が作り出した現実と結びつき、人々の苦難を生み出しているのだ。ここでそれらの問題に詳しく触れる余裕はない。ぜひ映画を観てほしい。ただ一点言えることは、私たちが常識を疑うこともなくある日常性の全てが、ここでは現実の政治性の中で恒常的例外状態としてあり、自明のものとしてあるのではなく、断絶させられていることなのである。その中で、民衆一人一人が、どうそれぞれの生を選びとっているのかが、実に繊細に描き出されていくのだ。軍事占領の内実は、民衆一人一人の生の現実の破壊以外ではない。
 さて、結婚式の日。シリアとイスラエル軍事占領地とその間に横たわる「兵力引き離し地帯」を越えてヒロインは、イスラエルからシリアへと嫁入りするのだが、この「ノーマンズランド」の両側で、それぞれの「国家」への出入国をめぐって、その証左たるスタンプの確認にともなう、バカげた、ナンセンスと言うしかない〈国家儀式〉のやりとりが行なわれる。「国家」とは、儀式の謂なのである。このまったくナンセンスな、そして「国家」というもののどうしようもないグロテスクな本質=国家儀式の中で人々は、またしても翻弄され愚弄されつくす。パレスチナを遠く離れたこの国で、このシーンは、ブラックユーモアとしか感じられないだろう。しかし、この儀式を仲介する「国際赤十字」という中立ヒューマン機関の内実、つまり現実政治の変更不可能性を体現した代行機関の無能ぶりも含め、儀式を、単なるバカバカしさと笑うのではなく、国家という儀式性こそが、この世界において民衆を死に至らしめている現実であることに想像力を働かせねばならないだろう。
 そして、この国際政治の現実を突破するのは、花嫁による単独行動――それは自爆行動ともなるかもしれない――、すなわち〈境界〉突破行なのである。日々、新しい生きた運動性は、民衆の中から生成されている。現実のバカバカしさの前に右往左往する国際機関員、シリア・イスラエル両「国家」の兵士・役人たち、そしてそこに結果として身心拘束されてある民衆。その全てを花嫁一人の突破行は異化し、新しい途を視つけ出す――しかし、行ってしまった花嫁は、再び生地の村に還ることはできない。なぜなら彼女は、シリア「国民」になってしまい、イスラエルという「国家」(=軍事占領地)への帰還はゆるされていないのだから。
 映画は現実の前で無力である。しかし、映画という小さな物語=歴史は民衆一人一人の〈更新され発見される生〉を描くことはできる。閉じられたテキスト性などに映画を封印してはならない。字幕の先に何を視るのか。〈観ること〉が、今、〈映画〉によって問われている。








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