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評者◆野添憲治
宇部興産沖ノ山炭鉱鉱業所――山口県宇部市
No.2906 ・ 2009年02月21日




 山口県は地下資源が少ないといわれる中国地方の中では、資源に恵まれている県である(『ぼくらの山口県』)。なかでも石炭は豊富で、宇部市の石炭はいまからおよそ三〇〇年前に発見された。はじめは掘った石炭を薪のかわりに使っていたが、南蛮車が発明されて大量に掘るようになると、下関、秋穂、防府などの塩をつくるところに送られた。石炭は萩藩の主要な産物となっただけではなく、この地域の人びとの生活とも深く係わってきた。
 明治末期から宇部の炭鉱は、本格的な近代技術による石炭の採掘を始めた。宇部興産沖ノ山炭鉱と東見初炭鉱(東見初炭鉱は一九四四年に沖ノ山炭鉱と合併)も操業を開始した。だが、「急激に進んだ鉱工業の進展は、宇部市では当然労働者不足に悩まされてきた。とくに他産業へ労働力が流れ出し、各炭坑の労働者不足は深刻であった」(『朝鮮人強制連行の記録・山口編中間報告』)。
 しかも、日本が朝鮮の植民地化を進める中で、土地や仕事を奪われた朝鮮人が職を求めて日本に来たが、とくに朝鮮半島と連絡船でつながっている下関市に近い宇部市は、沖ノ山炭鉱や東見初炭鉱などが朝鮮人の働き場所となった。一九二六年には四〇〇人の朝鮮人が宇部市内に居住したが、その六〇パーセントは炭鉱で働いた。それが一九二八年には、一二〇〇人と朝鮮人は増えている。
 一九三七年に日中戦争がはじまると石炭の需要は急速に高まり、沖ノ山炭鉱・東見初炭鉱でも石炭増産が急がれたが、労働力不足が大きなネックとなった。一九四二年には女子挺身隊三〇人が沖ノ山炭鉱に入坑し、海底でツルハシを振るった。一九三三年に鉱夫労役規定改正で禁止された少年、婦人の深夜作業、坑内労働も、わずか六年で廃止となったからだ。朝鮮人連行者はさらに多く求められ、一九四四年時点の警察部の調査では、沖ノ山炭鉱で一二六二人、東見初炭鉱で一二八三人の朝鮮人連行者が働いていた。こうしたなかで中国人強制連行がはじまった。石門収容所を出発した三〇〇人は、一九四四年九月一六日に第二弓張丸に乗船するまでに九人が減っている。これについて事業所では、「塘沽収容所において九名の罹病者があり、その九名は乗船させなかった」という。船中で五人が死亡したあと門司港に着き、「米軍機の本土空襲に備え、灯火管制で真っ暗やみの宇部港。動力船に引航された艀船一隻が宇部興産沖ノ山鉱業所近くの岸壁に静かに横付けされた。憲兵の厳しい監視下、疲れきった男たちは押し黙ったまま、重い足をひきずりながら『華北寮』と呼ばれる中国人収容所に消えた。その数二百六十人。太平洋戦争の戦況が悪化の一途をたどっていた昭和十九年九月二十五日深夜のこと」(『宇部石炭史話』)であった。しかも、「長途の船旅の疲労、異国へ連行される不安と緊張、それに栄養失調も重なり、門司から宇部到着までに五人が船内で病死、寮での健康診断でも約半数が中、重症の病人、残りも当分休養が必要なほど衰弱していた」(同)という。
 華北寮は英・米・オランダ兵の収容所と同じに、丸太棒を立てた柵に囲まれていた。一ヵ所よりない出入口は厳しく監視され、作業以外の外出は許されなかった。仕事は坑内の掘進作業で、少数の衰弱した人たちが坑外の作業をした。また、朝鮮人連行者、英・米・オランダ兵捕虜の場合を見ると食糧は大幅に不足したが、中国人連行者の食糧事情を知る具体的な資料や証言を見つけることは出来なかったものの、あまり違いはなかったのではないだろうか。
 日本の敗戦後の一一月二二日に生存者が帰国するまでに、船中死亡者を含めて九八人が死亡したと「外務省報告書」には書かれている。これについて事業場側では、「栄養失調症デ死亡セルモノハ六名、失明セルモノ二名、気管支肺炎ニテ死亡セルモノ五名」と証言している。死亡診断書によると「慢性腸炎兼栄養失調症」が八六人で、おそらく栄養失調には違いないだろうが、「余りにも画一的で信憑性がない」(山口県慰霊実委)としているのは同感できる。
 また、一九四五年一〇月に山口県知事の更迭にあたって、事務引継ぎのために警察部警備課が作成して提出した文書の中に、「(5)華人労務者ノ状況」というのがある。そこに、「本県ニ於ケル華労収容所ハ宇部市宇部興産株式会社沖ノ山鉱業所ノ一所ニシテ、昭和十九年十月、二九六名ヲ炭鉱労務者トシテ収容シタルモ、其ノ後死亡者アリタル為、現在員一九三名ニシテ、終戦ト同時ニ稼動ヲ中止シ、目下同収容所ニ収容中ナリ」と書かれている。外務省報告書では沖ノ山炭鉱に到着した中国人連行者は二八六人だが、事務引継書では二九六人。また、死亡者は九八人なのに、一〇三人と五人も多い。この違いは何なのだろうか。なお、八八人の遺骨は一九四五年一一月二二日に生存者が帰国する時に梱包して渡したと事業場では言っている。しかし、「生きて再び祖国に帰れなかった中国人労務者の霊は、二十八年十一月、県労評を中心とする殉職者遺骨送還実行委の手で慰霊祭が盛大に営まれたのち送り返された」(『宇部石炭史話』)と、慰霊祭の写真も載っている。どれが本当なのだろうか。







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