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評者◆秋竜山
おなじみの剣客、の巻
No.2905 ・ 2009年02月14日




 結局は、槍とか刀剣は、それに鉄砲は、殺傷のためにあるのか。武術は実用本位。そして武道となるのか。杉田幸三『決定版 日本剣客事典』(河出文庫、本体九五〇円)では、〈戦国期の剣客〉〈戦国末期より江戸初期の剣客〉〈江戸中期の剣客〉〈江戸末期の剣客〉〈幕末・明治初期の剣客〉にわけられている。もし一堂に会する機会でもあったら、それこそ殺気によって身がすくんでしまうだろう、と思ってしまう。このようなことを可能としてくれるのは映画化だろう。なんて、思ってしまう。
 〈武士、さむらい用語に、「腰の刀にかけて」という言葉があった。大刀は手に持っても、小刀はいつも腰にしていた。「かけて」ということは生命に賭けてである。約束を破り、恥辱を受け、他人に迷惑をおよぼした場合等、常に帯びた小刀で腹を切る。われとわが命を絶つというきびしい生き方が「腰の刀にかけて」の一言となった。〉(あとがき)
 腹がいくつあっても足りないとは、武士に対するブジョクか。それにしても恐しいことだ。映画や小説に出てくるような武士の役ならいいが、本物の武士になど、なりたくもない。そんな生き方など、まっぴらである。本書では二百十九人にも及ぶ剣士があらわれる。
 〈日本の伝統的武術は、他人を殺傷する技術を修得しながら、それに即して〝心〟を究めるという方向にすすみ、心技一如の修行は、ついには〝武〟自体を否定する境地へと高められた。これは考えられないことであった。相手を倒す、必勝の技術を学んで、ついに到達する世界が、〝武〟そのものを必要としない次元へ到るなど…。〉(解説・古武道の世界へようこそ、加来耕三)
 戦国期の剣客としては、子供の頃よりなじみのあるところでは、(伊藤一刀斎)(塚原ト伝)(柳生石舟斎)(山本勘助)(吉岡憲法)など。(佐々木小次郎)や(宮本武蔵)は戦国末期より江戸初期の剣客になる。江戸中期の剣客となると、(荒木又石衛門)(堀部安兵衛)(柳生連也斎)など。江戸末期の剣客は、(千葉周作)。幕末・明治初期の剣客には、(岡田以蔵)(沖田総司)(桂小五郎)(近藤勇)(坂本龍馬)(土方歳三)など。どうやら私の知っている剣客は、昔の講談や講談本で活躍した(おなじみの剣土ばかりのようだ)。〈日本の伝統武道(いわゆる古流武道)は、記録されているだけでも、剣術が七百十八流、柔術百七十九流、槍術が百四十八流あったという(今村嘉雄著『体育史資料年表』〉(解説)。剣客といえば、宮本武蔵の名がサッと出る。と、なると、佐々木小次郎か。私の興味あり、宮本武蔵の物語に最初ドキドキさせ続けて読もうという気にさせる(吉岡憲法直綱)(生歿年不詳)である。「吉岡伝」に武蔵との立ち合いが記録されている。
 〈「両方、相互いに心力をつくし、暫し時が移る。武蔵、遂に眉間を撃たれ血出づ、最も甚し。直綱しりぞいてのち、皆言う。直綱の勝なり。他、相撃ちと言う。しからば明白に一決せんと。武蔵は言う。(略)そこで数日後武蔵を待った。ところが、武蔵はたちまち迹をくらまし」〉(本書より)
 ところが武蔵がわの記録には、武蔵が完勝したとなっているとか。吉岡を主役にしたドラマをみたい。







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