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評者◆小野沢稔彦
狂気の先に見える別な愛へ――ジャン・ピエール&リュック・ダルデンヌ監督『ロルナの祈り』
ロルナの祈り
ジャン・ピエール&リュック・ダルデンヌ監督
No.2904 ・ 2009年02月07日




 どんな映画も、映画とは世界を映す鏡である。まして、作ることの根底に、映画というメディアそのものを問う姿勢を持つ者の作る映画は、常に観る者を挑発し制度の内に閉じられた思考回路の更新をせまるだろう。
 これまで常に、この社会の中で、日々生起する出来事の内実を、極めてリアリスティックに視つめる中から、人間と社会との深い関係性を問い、この世界の現実とは何か、を問い続けてきた作家たちの中にベルギーのダルデンヌ兄弟がいる。その彼らの最近作『ロルナの祈り』は、彼らがその方法としてきた特有なリアリズム的手法を基底に、更に新しい地平を拓こうとする意欲作なのである。
 今回、ダルデンヌ兄弟は、この現実世界の中に新しい〈愛〉の形象を視ようとする。しかし、ここで描かれる愛とは、これまで凡百の恋愛映画が語ってきた制度内化した、ステレオタイプの愛とは無縁の、愛などという使いふるされた言葉では形容すべき関係性ではないかもしれない。ここで切り拓かれる地平は、もっと切実でぬきさしならぬ、更にはこの世界の関係性を超えた幻想の愛なのだ。なぜならここには、通常の意味での愛を形成する当事者はヒロイン・ロルナ一人しかいないし、自明の愛の概念からは、ここで生起する愛は単なる幻影でしかなく、独りよがりの狂気以外ではないのだから。
 今や、この社会の末端労働の総てを担うのは、周縁国から流れついたデラシネ労働者であり、ロルナもまた、アルバニアからベルギーに不法流入し、底辺労働を行いつつ、ヤク中ベルギー人(家族からも放置され、金のためにそうしたのだ)と、擬装結婚を行い国籍を入手し、今はドイツの原発の底辺労働者(確実に被曝し、やがて白血病となるだろう)として働く、アルバニア人の恋人と小さな店を持つことだけを夢想し、手っとり早く稼ぎたいと思っており、平然と〈違法〉を行っている。金のためにあらゆる手段を使って、早くヤク中男と別れ、手に入れた国籍を武器に、今度は以前彼女が行ったことを再演すべく、ロシアからの流入者との擬装結婚を行おうとしている。そして、この擬装を成立させるため底辺に蠢く何者ともしれぬ人物が様々にからまる――チンピラ映画など、娯楽映画の描く世界の現実だ――この底辺状況を、ダルデンヌ兄弟は一見何の感情も交えず淡々と描き出す。アップを排したゆっくりとしたカメラ移動によって、ロルナに寄りそうのでもなく、冷酷に突き放すのでもなく、この社会の中にデラシネのままにある彼女を浮上させる。ここには今日のリアリズム(イタリアのそれの、今日的再生としての)映画の新しい方法があり、カメラもまた、現代が生み出した避けがたい流動の中に存在し、彼女を含むこの現実を再演する。この時、底辺にある総ての人間(社会から落ちこぼれたヤク中も)は、だれもが身体に裂傷を負っており、あらかじめ安定した世界から切断されており、安定した日常性への不可能性だけが露出している。そしてまた、だれもが充分に違法者なのだ。この社会は、全ての周縁の人間にとってよそよそしく敵対的であり、彼らに与えられてあるのは絶望さえ許容されない、時間だけがただ物質生活への渇望に人を駆りたてる救いようのない日常だけである。
 こうした日々、ロルナは天啓のように人間を発見する。この社会の中で痛々しく傷つき、それでもなお人との関わりを求め続ける無心の魂を。一切の制度的関係性から断絶されたヤク中男。ロシア人との擬装結婚工作の過程で障害となるヤク中男との殺人を含む工作の中で、ロルナはある日、理由のない突然の愛に目覚め、初めてヤク中男と関係を持つ。しかし、この関係性に、通常の意味での常識化された愛があるわけではない。いわば、まったくの無償の愛であり、それはまた一瞬に解体する、まさに突然炎の如き至福の瞬間の生なのだ。そして、男の死。その代償として、離婚は公認される。その時、彼女に第一の激痛が走る。妊娠。彼女と仲間たちは堕胎を決意する。こうして擬装結婚の手付け金は手に入り、彼女もそれを手にする。その時、再び彼女を激痛が襲う。
 二つの激痛、それは彼女とこれまでの一切の社会的・人的関係性との断絶を幻視する身体的覚醒であった。しかし医学的には、彼女は妊娠などしていない。それでも、彼女は自分が妊娠――ヤク中男との愛の証しを求めてなどと言うべきではない――していることの中に、ある別な生き方への意志的な投企の途を視ようとするのだ。ロルナにだって、ありもしない妊娠など起きないことは分っている。しかし、決して起きないことを夢想し、その夢想を通して彼女の中で夢想は現実となり、確かに生きられ始めるのだ。このことを新しい〈変革〉への序章だと言っておこう。彼女はたった一人〈別な世界〉へと身体ごと飛翔したのだ。
 やがて、婚約者を含む、この現実の中に身ぐるみ拘束されてある仲間たちは、彼女をアルバニアに送り還そうとする。しかし、彼女は旧来の一切の関係性――国境・制度・男女間の差異など――から離脱し、別の世界へと走り始めているのだ。そこに現実的展望があるわけではない。しかし、自らの身体に身籠った子供=新しい世界への予兆を手離すわけにはいかない。狂気の先に見える別な愛へ。強固に日常性を構成する世界の奥に匿された極小の愛の時空間を、新しいリアリズムの方法で視つめようとする『ロルナの祈り』は、観る者に世界を視る、別な視点をもたらすだろう。

『ロルナの祈り』は1月31日(土)より、恵比寿ガーデンシネマほか全国順次ロードショー。







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