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評者◆蜂飼耳
赤い海藻とお菓子
No.2904 ・ 2009年02月07日




 波打ち際の岩場で海藻を拾っていた。脳髄のような絡まりを見せる、赤い海藻を。白っぽい岩の上へ打ち上げられ、のどかに乾いている。たくさんある。乾いても色褪せないその赤色に引かれ、どうしようというあてもないのに拾う。噛んでみる。味らしい味はない。近くの草むらを割って、出てきたのは、猫だった。目を合わせず、存在に気づかないふりをして、どんどん拾っていった。
 沖を、船はいくつも、左から右へ右から左へと、確信をもって進む。波は盛り上がっては崩れるし、草むらはだらだらと風に揺れ、打ち上げられた海藻は遠くなる意識のように、乾く。その光景のなかで、確信を抱いているものといえば、沖に現れては消えていく船だけだ。航路。行く先など、もちろん知らない。知らないということすらすぐに忘れてしまう。輸送船。工業地帯へ向かうのだ。自分にとっても、きっとどこかで関係があるはずのものを作る原料を、運んでいるのだろう。関係なさそうなもののなかから、関係のありそうなものを拾い出して縄に編み、身のまわりに張りめぐらせることは、いつもいつも同じペースでできるとは限らない。赤い海藻を袋にしまう。なにかとてもいいものを拾った、そんな気もちが湧き上がる。
 バッグの底のほうを探ると、紙類や本やその他の荷物で潰されこなごなになった、ひと包みのお菓子が出てきた。包みを破いて、欠片を取り出し、猫に向かって放る。一度目は、見たものを信用しない。半信半疑で、寄って来ない。二度目、鼻先に近いところへ放ると、欠片へ、鼻から先に近づいた。警戒しなければ生きていけない。あまり見ていると、逃げ出すかもしれない。ユーラシア大陸に似た模様を背につけた猫から、目を逸らしたときだ。後頭部のあたりで、ばっと風が起こり、どっと飛び去った。鳶だった。褐色の翼がぐんぐん高くなり、小さくなっていく。やっと、手の皮膚が切れていることに気づいた。三ヵ所、鉤爪のかたちの配置で切れて、みるみるうちに血が滲んだ。高い音色が降ってくる。断崖の上の林へ向かう鳶の声。とはいえ、鳶は失敗したのだった。手のなかに、お菓子の包みはそのまま在った。どうして捕れなかったのだ。捕ればよかったのに。
 いつのまにか猫はいなくなっていた。突然の鳶に、恐れをなしたのだろう。海岸に沿って長々とつづく草むらのどこかへ、入ってしまったようだった。ふたたび出て来る気配は、なかった。猫は猫らしく、そっと立ち去っただけだろう。だが、なんとなく、こそこそと消えた感じがあたりに漂っていた。鳶の失敗は、さらに残念なものに思えた。猫も鳶も、もう来なかったので、人間のために作られたそのお菓子を口に入れた。
 佐藤優『国家と神とマルクス』(角川文庫)の一節が、あたまの浜辺へ繰り返し打ち寄せる。「一神教世界におけるカトリック、プロテスタントに顕著に現れることが多い、極端に思いつめて、絶対に正しいものは一つしかないという危険な発想は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のかかえる病理と思います。絶対に正しいものはあるんですが、人間の側から見る限り、それは複数あると私は思います」。自分にとって価値のあることが、他人にとっても同じように価値あるものだとは限らない。多元的な価値観が絶えず生成する世の中で、詩を書くとは、どういうことなのだろう。だれかにとっての詩が、自分には詩として映らないとき。自分にとっての詩が、人の目には詩として映らないとき。並立と衝突。
 「鳶に食べ物やっちゃ駄目だよ」。ぼそぼそとした声が突然、背に近づいて、貼りついた。振り返ると、犬の散歩をしている男の人だった。連れられた犬は、薄桃色の舌をぺろりと出して、つまらなそうにこちらを見ていた。「怪我するよ」。一部始終を見ていたのだ。鳶につけられた傷は浅く、三日で治った。







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