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評者◆福田信夫
「太宰治にサヨナラできない俺」を描く(野口存彌「太宰治と菊田義孝」『群系』)、〝こうのとりのゆりかご〝をめぐって(上原アイ「幼院」『文芸復興』)――全国で320誌以上の同人雑誌が頑張っている(『文学界』にリスト掲載)
No.2903 ・ 2009年01月31日




 『文學界』の「同人雑誌評」(実は同人雑誌の小説評)が去年の12月号で終わったことに惜しむ声や怒りまでが発せられている。例えば『視点』第70号の大類秀志「同人雑誌は永遠に不滅です」は、自らが同人誌にかかわった54年前から現在までの経緯と同人誌の存在意義などを明かしていて面白く読んだが、『東京新聞』昨年5月27日夕刊「大波小波」欄の「同人雑誌評の終焉」に「我が意を得たり」と思ったとは、ちとオーバーだと思う。その「大波小波」は「純文学の間接的な自殺行為ということになりはせぬか。老人を粗末にするとバチガあたるぞ。」で締め括られているからだ。最近の『文學界』の同人雑誌評はエッセイ類(評論、ルポ、随想その他)を取り上げなかった。評者の四人は優れたエッセイストなのに。芥川賞のせいか?
 それよりも『雲』通巻130号の新美守弘「続・葉山修平の世界(十)――『美の使途』について」で引用されている「いわゆる職業作家の作品よりも、同人雑誌の作品のほうが格段にすぐれたもののあることを私は知っている」と半世紀前に書いた林富士馬の言葉は今後も生きて行くと思う。
 ちなみに『文學界』同号には全国の同人雑誌のリストが載っており、それを地域別、雑誌数、同人の数で計算すると、北海道19誌・340人、東北14誌・164人、関東127誌・3268人、中部46誌・1005人、近畿60誌・1418人、中国15誌・375人、四国10誌・104人、九州・沖縄29誌・1040人で合計320誌・7714人となるが、これに個人誌、夫婦誌、学会の文芸誌などを加えると倍近くになるのではないか。嘆かずに己の誌に「受贈御礼一覧」に代えて他誌の作品を批評する欄を設ければいいのである。
 閑話休題。今回もまた釘付けになったエッセイが多かった。『群系』第22号は「《特集》平成二〇年間の文学」で、野寄勉「西村賢太の慊さ」など20編とアンケート「平成二〇年間の文学」で好きな作品三つ、平成文学年表と《論考》6編、その他創作も6編があり、号を追うごとに大手の月刊文芸誌では味わえなくなったものをもてなしてくれる誌である。選ぶのは難しいが、野口存彌「太宰治と菊田義孝――文学と宗教を問う人」は、野口が昭和32年1月に出会い、平成14年7月に逝った菊田との45年間の通交と、昭和10年、19歳の菊田が太宰の「ダス・ゲマイネ」を読み、昭和16年6月に三鷹に太宰を訪ね、別れるまでの太宰の実情が菊田を媒介にして描写されている。このなかで印象的なのは、昭和22年7月14日に菊田が訪ねたとき、「おれはこれから一年ぐらい経ったら、ある女と一緒に死ななくちゃならないんだよ、そういう約束しちゃったんだ」と太宰が言ったこと。また、イエス・キリストを罪のあがない主と見る菊田に対して太宰は自己の罪は許されてはおらず罰せられなければならないとし、敗戦を境に自分の外側にプロテストすればするほど自己破壊することになったこと、それは最晩年の「斜陽」「如是我聞」「人間失格」で表わされる。菊田にとって太宰は、優しい人から厳しい人に変わったが、「太宰治に会おうとして/初めてこの駅に降りたのは/俺二十代の ある真夏(中略)歳月は三鷹を変えた/変わらないのは 俺ばかり/太宰治に どうしても/サヨナラできない俺ばかり」という詩を昭和49年春に菊田は書く。そして翌年の桜桃忌の次の日に子息が自殺し、平成14年7月21日に菊田義孝は永眠するが、詳しくは読んでもらうしかない。同誌で面白いのは沢山あるが、《散歩ノート》の安宅夏夫「夢二ゆかり――竹久野生の個展を見て」はタイトルの紹介だけにする。
 次に『琅』21号の小沢芳治「二〇〇八年 二大記者と四〇年目の夏」は、「かねてから深く尊敬していた二人の新聞記者、藤村信と疋田桂一郎氏の仕事を並行して、しかも集中的に読むという宿題を自らに課した」作者の執念が、本物のジャーナリストの姿を現出させており、感服した。作者は1966年にNHKに入り、各新聞社への資料の提供などが最初の仕事であったというが、この時の資料(情報)蒐集勉強が40年余後に(も?)結実した。熊田享(筆名・藤村信)と疋田桂一郎の仕事の全容については『琅』を読んでいただきたい。
 『セコイア』33号の吉川仁「回国の岸辺の眼(ⅩⅢ)――終章エビック調・シベリアの悲劇(承前)」は、昭和20年の夏、関東軍の将兵約70万人が、ぶきみな沈黙のうちにシベリアへ忽然と消えた謎を解き明かす。それは「日ソ連繋による対英米永久戦争論」や満洲にいる軍と民約180万人を日本国家から切り離したい大本営の棄民戦略を大本営作戦課の軍事テクノクラート集団が考え出し、対ソ作戦参謀の朝枝繁春中佐(1912~2000年)と一期上の瀬島龍三中佐(1911~2007年)らがソ連側に懇願した経緯が多数の文書や資料によって裏付けられていて奇想で驚くことばかりが頻出する体験ルポ。
 『作文』第197号の秋原勝二「満洲時代の『作文(16)――私のみたその背後地〓2』は、「満鉄の生涯は僅かに四〇年、その後半の二五年をそこにすごし」た作者(95歳か)が満鉄調査部の初発の精神である「文装的武備」が関東軍によって否定されようとする様相や「満洲青年連盟」による瀋海鉄道の復興実現など後藤新平や児玉源太郎、十河信二、原口統允、石原莞爾などの姿を生き生きと描いて生き方を教えられる。なお、秋原が亡き妻の肖像を1994年から描いてきた「《冬夜物語》小さな海」が今号(40回)で完結したことを言寿ぎたい。
 『Pegada(ペガーダ)』8号の小泉敦「『明暗』という巨大迷路(二)」は、漱石の『明暗』の津田をめぐる夫人のお延と清子の三角関係を軸に、それぞれの登場人物の性格のユニークさを明らめつつ、この未完成の小説の結末の姿を希求し、〈明から暗へ〉か〈暗から明へ〉かを繊細な文章で問う。
 『文芸復興』第19号(通巻119号)の上原アイ「幼院(すてごやくしょ)――十八世紀末ロシアの『ゆりかご』――」は、2年前、熊本市の慈恵病院に設置されて話題になった「こうのとりのゆりかご」、いわゆる「赤ちゃんポスト」を評価することから始め、実はこのようなものを1791(寛政3)年に、漂流民であった大黒屋光太夫(1751~1828年)が見学していたことが『北槎聞略』の巻之七にあり、その「幼院」はかなり大きな施設のようで、中には学校と技能を習得する「百芸の院」があり、成人するまで養育してくれ、また児を預けた母親には金五百文(日本換算)が与えられ、母親はいつでも見られ、取り戻すこともできたという。またヨーロッパには中世以来、「捨て子」を置ける「こうのとりのゆりかご」があり、イタリアでは12世紀にローマ法皇の勅令で開設されたという。作者は光太夫の功績と人間性の豊かさと女帝エカテリーナ2世ほか素晴らしいロシア人たちの姿を優しく描いている。
 『季節風』第106号の花村守隆「風物 うみ」は、傘寿に近い作者が伊勢湾の手前にある木曽川べりの小さな村での小学から中学、その後の戦時中の体験を思い出し、現今の海への憧憬を悠然とした文章で綴る不思議な随想風の小説。「一滴の雨も降らない日照が1ヵ月近くつづいているというのに、川の水がにわかに増えはじめることがある。(中略)はるか上流の信州の山に信じられないほどの雨が降ったにちがいない。」とか。
 『街道』第13号の木下径子「曲がり角」は、夫、息子2人との日常生活で会話の成り立ちがたい様子を、本当は大事なことを問われているのから逃げる3人の男と自分の姿を素直に活写する余裕が可笑しみになるのに惹かれる。
 『文学街』1月号(通巻256号)の間宮武「渋団扇」は、傘寿を超えた作者が小学5年の時に坊ちゃん刈りをやむなく坊主刈りにした70年程前のことを描き、またそれから半世紀以上も経ったクラス会でも、トラウマ(坊主刈りにした頭が渋団扇と似ていると茶化されたこと)が蘇える短編。
 『なんじゃもんじゃ』の小川禾人「一瞬の空」は、1066年10月14日朝9時から始まったアングロ・サクソン軍とノルマン軍のブリテン島での戦いを描く中編小説で王位継承をめぐる権力争いの心理劇が面白い。最後、優勢であったアングロ・サクソン軍がハロルド王の「追うな! 返せ!」の命令が通じぬ乱戦となって反撃される。死の間際、ハロルドは「玉座とは果たしていかなるものであったのか。(中略)結局、すべてが『無』だったのではないだろうか。」と思うが、「彼が目にした空の青さ」は、アウステルリッツの青い空を連想させる。同誌の小野遙「父の運転免許証返納」は半年後に米寿を迎える父に更新を諦めさせる娘の巧みで必死な作戦をユーモラスに描いた短いエッセイ。
 『文芸静岡』第78号は、去年亡くなった高杉一郎と小川国夫、高橋喜久晴、赤堀碧露への追悼文10編が収められている。高杉一郎については竹内凱子「確かな眼差しは消えることなく」など3編、小川国夫については山本恵一郎「作家への軌跡」など5編、高橋喜久晴については堀池郁男「アイデアと行動の人」、赤堀碧露(本名・博志)については田中陽「いまわの碧露」。また《特集「日記」》として竹腰幸夫「中島敦の恋歌」など16編があり、他に「いのち」コラボレーションとして詩、短歌、俳句、創作がジャンル別に豊作である。
 『飛火』第37号は中原好文(1935~2007年)の追悼号。中原は早大の露文科でトルストイを学び(卒論は「『戦争と平和』試論」)、大学院の仏文科でロマン・ロランを学ぶ(指導教授は新庄嘉章)傍ら信州の山々を登り、19歳で尾崎喜八と出会い、のちに杉野女子大学の学長を務めるなど行動的な人らしく22人が「追悼・中原好文さん」に寄せているが、新庄盈生「『ジッドの日記』再刊行と中原さん」が印象に残った。それは新庄嘉章訳の『ジッドの日記』全5巻を4年がかりで再刊するのに中原が労を惜しまぬ優しい姿が出ているからだ。
(編集者)







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