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評者◆蜂飼耳
観音埼灯台のこと
No.2900 ・ 2009年01月01日




 バス停で降りたその先、灯台へとつづく道の途中に、赤茶色の石でできた詩碑がある。海に向かって、歩道際に立っている。刻まれている詩は、西脇順三郎の「燈台へ行く道」。『近代の寓話』に収められたこの詩のモチーフは、神奈川県横須賀市の観音埼灯台だ。「まだ夏が終らない」という一行ではじまる詩。
 夏に訪れたときには、浜にも、波の上にもいっぱいだった人影は、きれいに消えていた。夏には、地面をにぎやかに行き来する蟻たちが、冬には一匹残らず消えているのと同じだ。無人。人は、蟻のように地下へすがたを潜ませるわけではないけれど。椿や山茶花が、赤い花、白い花を咲かせ、惜しむこともできずに、自分の足もとへ落としている。椿は、ぼったり。山茶花は、はらはらと。
 樹木のあいだをうねりながら伸びる道を辿る。崩れそうな岩、さらされた根、ときどき散歩の人。詩碑に引かれているのは、その詩の三分の一くらいだ。「いろいろな人間がいつたことを/考えながら歩いた」というところまで。詩碑の詩は、これからもこの先も、そこまでだ。詩碑に刻まれた文字は、増やされることはない。スペースもない。墓石とはちがう。つづきを読みたい人は、本を手に取ればよい。工事をしている人が数人いる。落石を防ぐための工事を。
 灯台へ久しぶりに行く。管理室の受付には、以前と別の人が座っている。「私はまだ新人」と、その人はいう。「第一海堡も第二海堡も、今日は霞んでよく見えませんね」というと、双眼鏡を貸してくれる。資料室のドアのノブには、作り物のカラスの死骸がぶら下げられている。鳥がやって来て悪さをしないように鳥除けとしてぶら下げてあるのだ。「あなたみたいに灯台の好きな人が、灯台に勤めればいいのよ」と、勧められる。そんなふうにいうのは、灯台の仕事を気に入っていないからだろうか。「眺めもいいし、灯台もきれいだし、いいですね」といってみる。本当に、素晴らしい眺めなのだ。日本の船、外国の船、浦賀水道を行き交う船舶の数々。緑。海鳥。「そりゃ確かに眺めはいいけど、嵐の日も来ないといけないし、広いところをみんな掃除しないといけないし、大変なのよ」。わかってないな、という顔つきになる。
 観音埼灯台は、日本初の洋式灯台だ。明治二(一八六九)年元旦に、最初の火が灯された。関東大震災で損壊を受け建て替えられ、現在のものは三代目となる。建て替えは大正一四(一九二五)年だから、西脇順三郎が目にした灯台は現在のものだ。「人間や岩や植物のことを考えながら/また燈台への道を歩きだした」。それが詩碑に引かれている詩の末尾だ。燈台への道。ということは、行きの道だ。帰りではなくて。灯台そのものの詩ではなく、灯台に上った感想を書いた詩でもない。照葉樹におおわれた道を灯台へと辿る時間の、長いような短さ。短いような、その長さ。いまにも崩落しそうな岩、工事の人たち、江戸時代からの墓。あたりには巡礼道にも似た空気が漂う。
 灯台の庭には、芝生があおあおと生えていて、ところどころに「マムシに注意」の札が立っている。冬も出るのだろうか。冬は出ないだろう。眠っているだろう。だが、札は出しっぱなしだ。札は役目から解放されて、のんびりと日を浴びている。そばに、硬貨を入れると作動する双眼鏡が備えつけられている。その脇で貸してくれた双眼鏡を覗くのは、気が咎める。けれども、覗く。なにかを輸送する船が東から西へ、進んでいく。秒針のように、はっきり、目に見える動きだ。
 帰り際、双眼鏡を返す。あなたの住んでいるところは、近くの灯台っていうとどこ、と訊かれる。「ないです、灯台は。海がないから」。管理人さんは一瞬、ぽかんとする。灯台のある場所で暮らすと、それがないという状態は、にわかには想像がつかないのかもしれない。「ああ、海がないのか」と、笑った。







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