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評者◆小野沢稔彦
20世紀の全体主義を考える上で、決定的に重要な作品――テンギズ・アブラゼ監督『懺悔』
懺悔
テンギズ・アブラゼ監督
No.2898 ・ 2008年12月20日




 のっけから恐縮だが、まず私事を書くことをお許し願いたい。私は、ソ連崩壊直後のグルジア独立・内戦の渦中、その取材で前線を中心にグルジア各地を回り同時に多くの映画人、大統領に復帰したシェワァルナゼ、グルジア聖教大主教(ロシア正教から独立直後)など多くの人たちと会った。『懺悔』の監督、テンギズ・アブラゼとも二度、一度は単独、一度はこの映画にも出演している女優で娘のケテヴァン・アブラゼを交えて、彼の自宅で会った。彼は独立直後という状況故にか、私の前に強烈なグルジア民族主義者、シェワァルナゼ礼賛者としてあり、彼の映画から私が受けていた想いと違い、私はとまどいを覚えざるを得なかったのだ。女流監督、ナナ・ジョルジァーゼ(国会議員でもあった)が冷静に事態の解決を探っていたのに比し、彼の突出ぶりは際立っていた。その印象が今回『懺悔』の評を書くに際しても影を落としているか、と思う。
 結論から言っておこう。この映画は20世紀の全体主義を考える上で、決定的に重要な作品として多様な視点から解読しえる傑作としてあるだろう。映画は、スターリン主義を一方的に断罪し、もはや終わった歴史として完結させるのではなく、むしろ今日の、この状況の中で私たちが加担する「時代経験」として、20世紀文明における普遍的な課題として、つまりあの時期に出現し、民衆を抑圧した特殊な現象としてだけ捉えるのではなく、この時代にまで関わる今日の問題として、至る所で起こる全体主義を問おうとすることにおいて、優れた映画となっているのだ。
 『懺悔』は、映画全体を貫く、多様な寓意、隠喩、幻想、静かなユーモア、そして独特な象徴的手法などによって生れる、一見静謐な黙示録的な完結した作品としてあるように思われかねない。しかし、決してそうではなく、実は深く運動的な批判の映画としてあるのだ。旧約聖書の「カインとアベルの物語」に似て、ある民族内部の殺戮と抑圧を直接的な政治シーンを登場させることなしに、むしろ民衆のくらしの場が生成する政治性が、いかに全体主義に捕り込まれていくかを多面的に紡いでいく。そのことは、この現実の中に、人々が単に捕り込まれただけではなく、民衆自身の自発の行為としての参加――民衆による全体主義形成の運動性――の起動力こそを描き出すこととなる。
 ここに登場する人々は総て、神話を担い構成する神話的人物でもある。特に中心人物たる偉大な市長――スターリンであり粛清者ベリヤであり、ヒトラーをも暗喩する(製作時のソ連の状況をも考慮しての)――は、限定的な体制を超えた、普遍的な偉大な人物として造形されてある。彼は全体主義の表象であるだろう。そして、彼は様々な意味で実に魅力的なカリスマであり、決定的な道化、トリックスターでもあるのだ。この偉大な男は、悲劇の渦中にある女たちを中心に、誰にも愛され、民衆の困難の近くにあり、その内面の理解者として、まさに全てを見、聞くことのできる存在なのである。例えば、偉大なる男によって拉致追放された男たちが、流刑地から届かぬ想いを伝えようとするグルジア文字そのものが、悲劇の形象として刻み込まれた丸太のある貯木場にこの映画の中心一家の女たちが、夫と父の消息を求める美しく、形容しようもない哀切なシーン。ここには全体主義への告発を超えた、人間の生そのものが持つ存在としての悲しみが表現されている。そして、その悲しみに最も感応しているのはあの偉大な男かもしれない。彼は民衆の声を聞き、同時にその声を断罪する。民衆の見るものを共に見つつ、それを解体する。そして、結果として民衆とその生活の全てを抑圧し、軛の下におくだろう。しかし、そのことは民衆自身が、ある面で望んだことではなかったか。だから偉大な男は、イコンに純化されるキリストそのものでもあるのだ。最も抑圧されてある女たちは、共に苦しんでくれる偉大な男の中に〈父〉を、そして〈聖なるキリスト〉さえをも見出す。
 男は時に、圧倒的な声量と美しい声によって、民衆の苦悩を朗唱する。民衆は涙し、男も涙する。彼は民衆の悲劇を体現し、その悲劇を演ずる役者としてもある。彼は王であり、同時に最も虐げられた存在でもある。時に混沌を生み出して絶対的な秩序をも生み出す。昼と夜の顔を持つ双面の神であり、現実政治そのものを規定すると同時に、象徴的宇宙を司る。宇宙とは空虚である。
 やがて、民衆の歴史そのものの象徴であった聖堂さえもが、男によって破壊される。偉大なる男の発する偉大な声は、民衆の中に「敵」を発見する必要性を訴え続け、民衆は陶酔の中で、その声を支え続ける。無数にいる小さな男たちは彼らの思考を超えて全てを認識し、全ての指針を示すその男を支え、巨大な官僚組織を作り上げる。組織は肥大化し一人歩きし、民衆を抑圧するモンスターとなって次々と民衆を抹殺する。そして、人々の虚無の共感に包まれた偉大な男への讃歌はいや増し、空虚な体制のみが世界を覆ったままに、絶望の全体主義体制を形成する。
 その男は死んだ。絶望の祭りから覚めた人々は、彼を埋葬し、祭りの後の空白の中でその空虚な時代を顧みることはなく、安穏な日常へ帰っていこうとする。しかし苦難の人生を強制された一人の女のみは、男の墓を暴くことを全ての人々に要求する。人々はとまどいの中で女に応えることができぬままに問題をすり変えやり過ごそうとする。女は、一切は終わってはおらず、偉大な男を支えた組織は残り、男に似たその矮小なコピーとしての無数な男たちが生きていることを告発する。巨大なモンスターが支配する全体主義の時代は終わったかに見えるが、目に見えぬ体制と思考と運動そのものは、今、ここに持続してるではないか! 女は問いを封印する無責任性こそを民衆に問い続ける。墓を暴き続ける中に「新しい途」をさぐらねばならない。そして、絶望を封印し、終わりとするのではなく、絶望を今を問う方法に転化するために墓は暴き続けなければならない、と。
 男のコピーは何もなかったように懺悔する。しかし、何が変わったのか。やがて、敵は偉大なる男からソ連という体制へと移り、そのソ連が崩壊し新しい独立国家が成立した。しかし、自由な時代はやってくるのだろうか。否。アブラゼの見果てぬ夢。彼が生み出した人物の影にそれを産み出した当人さえも呑み込まれないとは限らない。21世紀のモンスター「ナショナリズム」とどう向き合うのか。私にグルジア独立を称えてみせたアブラゼは、その後の現実をどう見ていたのだろうか。ナショナルな表象をいかに超えるのか。例えば、グルジアに特有な民衆のポリフォニックな朗唱――『懺悔』でも偉大なる男の方法としてあり、また民衆のアイデンティティの表出としてあった――さえもが、ナショナリズムを形成するものとして、制度そのものの中に盗り込まれ、制度を補完するものとして使われかねないのだ。そして、オブラートのようにまとわりつく官僚制は、より巧妙さをまして、民衆の生そのものを覆いつづける。
 とは言え『懺悔』は、ナショナリズムと国家に向きあうラディカルな視点を提出し、その批判の方法と運動性を生むための源泉として今もあるだろう。『懺悔』は21世紀にこそ生き続けている。翻って、今も千数百年前の墓さえ暴くことができないこの国にあって、全体主義の時代の後も、戦争責任さえ問うこともないまま持続させ続けている、「天皇制」の中に生きる私たちこそが、『懺悔』によって問われているのではなかろうか。







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