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評者◆蜂飼耳
ピカソより落ち葉
No.2898 ・ 2008年12月20日




 はじめてのゆるい坂道を、のろのろと上った。美術館の門から、建物へとつづく坂道。足元に、目のとどく広い範囲に、たくさんのきれいな落ち葉がある。見るつもりはなくとも見てしまう。いつしか背を屈める恰好になっていく。拾うか、拾わないか、瞬間、迷う。いっそう背中を屈める。拾ってどうするのだろう。思いながら、とうとう拾った。桜かな。桜だろう。そばに立つ樹は桜だけれど、本当にこの葉っぱも桜かな。と、嗅ぐ。桜餅に似た香りが鼻孔をくぐり、脳の天井へ煙りのようにとどく。桜だった。
 沈んだ赤色の葉っぱを、手に載せる。小さな本だ。なにも書いてない。なにもかも、書いてある。桜の樹の、今年の気分が書いてある。夏の暑さや虫の訪問が記録されている。水分の吸収と蒸発について、書いてある。左上に、虫の穴。目に当てて、のぞくと、美術館の建物が見える。あそこへ行こうとしていたのだ、途中だった、と思い出す。道草をしているうちに、道草のほうが目的になりそうになる。一枚拾ったために、その先に落ちている葉っぱの数々も無視できなくなる。こんなところでもたもたしていては、展覧会を観られない。わかってはいても、落ち葉に向かう。拾いたいものがないかどうか、あればそのたびに背を屈め、拾って、坂道をなかなか上りきらない。
 六本木の国立新美術館。ピカソの展覧会を観た。ピカソより落ち葉、と考えを変えかけていたが、出入口に着けば落ち葉のことは忘れ、絵を観る。混んでいた。ピカソというよりピカソが辿った変化そのものに興味がある、とある人がいっていたことを思い出す。青色、薔薇色、キュビスム、そしてまた写実性を取りもどす画風へ。展覧会の会場の、部屋から部屋へ移りながら「横溢」という熟語が浮かぶ。作風に変化はあれど、一貫して感じられるものはエネルギーの横溢。ただ溢れ出ているというのではない。そこには、さらに大事なこと、つまりコントロールがあるのだけれど、その力加減に独特の色がある。空へ上げた凧の糸を操るように、すっ、すっ、と引く。勢いのある筆使いからは、描く際の力よりもむしろ加減して引く瞬間の判断を感じる。
 熱のこもったにぎやかな絵を百点以上も、次々と目にすると、しだいに疲れてくる。読書する女、泣く女、青い帽子の女、座る女。会場は女の絵でいっぱいだ。ピカソの恋人だった女たち、オルガ・コクロヴァやマリー=テレーズやドラ・マール。ふと気づけば、会場を満たす客も、女性のほうがずっと多い。年輩の女性が多い。平日の昼間だったからだろう。眉間に皺を寄せたり、笑ったり、ため息をついたり、ささやき合ったりしながら、だれもが絵を眺める。展覧会の会場へ来て、絵を眺めない人はいないのだ。
 アルゼンチンの作家、フリオ・コルタサルの短篇「猫の視線」(野谷文昭訳・岩波書店『愛しのグレンダ』収録)を思い出す。語り手「ぼく」は、恋人のアラーナが絵を観るときのようすをこう語る。「けれど一幅の絵、または版画の前でアラーナは、ぼくがアラーナだと信じていたものをさらにかなぐり捨てた」。絵から別の絵へと移動するうちに、「彼女は自分でも気づかぬまま彼女自身から抜け出てしまう」。目の前のものに夢中になることは、自身から抜け出ること、別のものに変わることにほかならない。
 ピカソが一九六一年に作ったという白い椅子が、心に残った。ぱっと見て、どきりとした。座面が、狭いうえに傾斜している。座れない。椅子だといいながら、座れない、座らせないものなのだ。そういう考えは、いたずらに近いのかもしれないが、うっとりさせられる。絵、といいながら見えない絵。本、といいながら読めない本。音楽、といいながら聴けない音楽。そんなものの前で、ぼんやりしたい。その日に拾った落ち葉は、放り出しておいたら、ぱりぱりに乾いて、変色した。虫の穴は、そのままで。







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