書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆小野沢稔彦
世界に対し常に複眼的に向き合うこと――イジー・メンツェル監督『英国王給仕人に乾杯!』、アレクサンドル・ソクーロフ監督『チェチェンへ アレクサンドラの旅』
英国王給仕人に乾杯!
イジー・メンツェル監督
チェチェンへ アレクサンドラの旅
アレクサンドル・ソクーロフ監督
No.2896 ・ 2008年11月29日




 不幸と幸運とはいつもドンデン返し、このことを世界認識の視点とし、何も見るな、何も聞くな、そして、全てを見、聞け、を世界を生きぬく実践の方法とすること。世界に対し常に複眼的に向き合うことは、周縁を生きることを強いられ、抑圧的な関係世界の中で従属的な位置を強制されるチェコの民衆が、そのあり様を自覚化する過程で必然的に身につけた生の方法なのだろう。制度の中心から自己を意識的にズラし、専有された空間の中で自らを遊戯的な存在として位置づける、知的で両義的な戦略は、その現われとして軽妙で屈折した喜劇として表出される。
 久しぶりにフランス映画社が放つチェコ映画『英国王給仕人に乾杯!』(イジー・メンツェル監督)は、苦いユーモアに支えられた深い抵抗の意志を全篇に漲らせた傑作である。自らを世界に同一化するのではなく、非同一的な遊戯空間を作り出し、その中でミメーシス的な仕掛けを意図的に行いつつ、生のあり様を模索する知的で積極的な喜劇として『英国王……』は抑圧的世界に――外部世界だけでなく、内部世界の問題も含め――したたかに対立する映画としてあるだろう。この時、ミメーシス的方法とは単に〈私〉と〈他者〉とを二分割し、私が他者を模倣するのではなく、主体が客体に身をやつしつつ、両者の渾沌の中に、その狭間であいまいに浮遊しつつ世界を見、聞き、知ることで、固定的な関係性を流動化することなのだ。このことは東欧の小国チェコが選びとった高度な文化戦略であり、例えば文学の伝統にも通底しているだろう。
 この生き方を体現した一人の男が、いかに20世紀を生き延びたのか。その波乱に富んだ、それでいてなんとも矮小な小さな男の可笑しくて悲しい物語こそが『英国王……』なのである。小さな男は20世紀の両大戦、特にナチ支配下の第二次大戦での愚かしく、絶望的で痛ましい歴史と戦後の共産主義政権の中を、断固ミメーシス的に生きる。彼はいつでも、どこでもあらゆる意味で中心から追放されてあり、周縁的に境界上をタイトロープしながら、しかし、擬態と化しつつ、体制内部で体制そのものを空洞化する。小さな男にとって、大きな物語は彼の意志とは無縁なままに外から勝手にやって来る。つまり、世界は小さな一つ一つの〈出来事〉の連鎖として、彼の前に現出する。男は、大きな物語、男にとっての出来事を軽妙にズラし、ミメーシス的に向き合い続ける。そして、映画は男が関わる出来事を肌理細かく描き出す。男にとって出来事は時に不幸をもたらし、幸運にドンデン返しする。この狭間に生ずる軽妙で苦いユーモアは、重層したあまりに屈折した物語としてあり、小さな国の小さな男は笑いによって絶望と紙一重のところで踏み止まり、別な何か、体制化された見ること、聞くことではない身体性の発見、すなわち別な見る、聞くことの獲得へと自己のあり様の転化を図るだろう。制度化された身体性をズラし、抑圧的な関係性の全てをシャレのめす、そのような生の方法の発現として、笑いはあるのだ。小さな男の小さな物語は歴史に翻弄されながらも生きる人間のしたたかさの物語だ。
 小さな物語はまた、あらゆる細部に実に良く目が行き届いている――細部こそが、小さな物語を傑作に仕立てる。例えば、言葉の持つ両義性、その抵抗の力と被拘束性を意図的に使っての言語対決、衣裳の制度性を異化する描写、ビールジョッキや鏡などの小道具を活かした確かな演出。そして、ソーセージやビールにまつわるぬきさしならぬ記憶の鮮やかさ。そうした細部表現が、小さな男の物語を豊かな物語として成立させ、紛れもなく映画でしかない表現として、この映画は私たちの前にある。イジー・メンツェルの細部へのこだわりが、あらゆる場面に貫徹される『英国王……』は、抑圧性を異化し、知的で諧謔にみちた映画表現の可能性を拓いた見事な映画なのである。
 一方、21世紀の行方を暗示するチェチェン戦争の現地にロケし、ロシア人監督・A・ソクーロフが戦争の現実を描いた『チェチェンへ アレクサンドラの旅』も、夢幻と現実とのあわいで揺れる限りなく痛ましい戦争映画として特筆に価する。ここには、映画全体を貫いて異様なまでの戦争の酷烈さと、ただならぬ気配が漲っていて、その気配の中に直面させられる私たちは、激しい緊張を強いられる。しかし、断っておくが、この映画には再現としても、現実としても、戦闘シーンは全く現われることはない。戦闘のない戦争映画『チェチェンへ』は、しかし、ぬきさしならぬ戦争の気配を描くことで見事な戦争映画となったのである――そしてこれまでの、戦争を生み出してきた戦争映画への批判としてもあるだろう。ソクーロフは、チェチェン戦争の前線に自分と同じ(その女性形)名前を持つアレクサンドラという老オペラ歌手(兵士の祖母という設定だが、オペラ歌手としか言いようのない存在)を投げ込み、孫の元へと戦地訪問させる。そして、そこに生ずる気配やチェチェン人とのあいまいで不可思議な遭遇を、アレクサンドラの無表情の表情や身振り、意味にならない呟きに乗せて、現実と夢との狭間の〈出来事〉のように描き出す。戦地の異様な緊張感が常態化した、その非日常の日常化の中で、現実の前線兵士がカメラに向ける視線や、兵舎の狭い通路でのスレ違いや、執拗にカメラにつきまとうチェチェンの子供たちの眼差しが、つまり〈戦争〉の現実の断片が全篇にわたってアレクサンドラにまとわりつく。そして、観る者は戦場に捕り込まれる。
 アレクサンドラの歩み――何かに強いられたように戦地を歩くその歩みと、アシストする若い兵士の歩幅と速さと彼女のそれとの差異。アレクサンドラの戦争と孫への屈折した想い――祖母の重い言葉と孫の即物的な対応との差異。そこに生ずる言いようのない空虚。しかし、アレクサンドラという存在自体は、戦場の全てと自己との差異・断絶をまったく忖度しないかに見える。観る者をイライラさせ混乱させる、戦争とアレクサンドラとの断絶。奇妙な平静さを保つ戦闘のない戦争状況――もちろん、それは圧倒的なロシアの軍事力によるチェチェン殲滅戦によって作られた――その見せ掛けの安定の内実が、アレクサンドラの緩慢で不遜で傲慢に見える歩みによって、気配として浮上する。
 彼女の不遜さはチェチェン人にも向けられる。アレクサンドラとチェチェンの女――彼女も戦争へと息子を送ったと思われる――の間に生ずる奇妙な親密さ。そしてまた、バザールを睥睨するように歩む彼女は、かつてのオペラファンに対するようだ。憎悪の眼差しが行き交う中で、彼女はその存在様式の特異性故に、チェチェン人にとっても、ある〈母性〉として存在するだろう。この〈大地母神〉は、分断された大地を超えて屹立する。けれど、それは一瞬の夢幻劇だ。見せ掛けの関係性は、アレクサンドラがロシア兵士の祖母であるという現実に回収される。
 その帰路――チェチェンの若者とアレクサンドラとの長い道行は美しい。若者は言う――メッカとペテルブルグに行ってみたい、と。メッカは「イスラム」の、ペテルブルグは「全ての美と富と力」の象徴。チェチェン戦争は、このメッカとペテルブルグが象徴するアンビバレンツな憧憬の上にある戦争なのだろうが、「ロシア精神」の権化としての女と、そこに両義的な感情を抱くチェチェンの若者との道行はあやしく美しさを漂わせ、実に痛ましい。戦争という空虚。
 そして、部隊に戻ったアレクサンドラは、初めて孫と心をゆるしあった幸福な時間を持つだろう。しかし、現実は、この美しい時間を残酷に引き裂く。アレクサンドラにとって、孫との別離が戦争の現実の中でやってくる――孫は命令によって最前線へと赴かねばならない。孫は、祖母を抱いたその手に銃をとって、現実の戦闘へと向うのである。一方、アレクサンドラは全ての制度と文化とが権力となって抑圧的に作用するロシアという国に帰っていくだろう。この時、チェチェンの女はアレクサンドラを見送ることはない。しかし、アレクサンドラは戦場で何を見、どこへ帰るのだろうか。







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約