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評者◆蜂飼耳
菊の盛衰
No.2896 ・ 2008年11月29日




 都内の駅構内。東口の改札からの乗客と、西口の改札からの乗客が、反対方向からの波となってすれちがうあたりに、大輪の菊の鉢植えがいくつも飾られていた。白、黄、赤紫。ひとつの鉢に、ひとつの花。小学生くらいの背丈。迷いのない、すっきりした立ちすがた。どこかの町の、菊祭りの宣伝らしかった。
 目を引かれる。けれど、菊の花ゆえではなかった。そばに人がいて、写真を撮っている。写している人たちがいるということに、すいと視線を引かれたのだった。金髪に青い目。足元には赤い色のバックパック。海外からの旅行者と見えた。黒髪の人の群が流れていく場所で、立ち止まり、ゆうゆうと、堂々と撮影。
 歩きながら、歩くことをやめないまま、その人たちの熱心なようすをカメラではなく視界に、収める。白、黄、赤紫。丹誠された菊の鉢を、五重塔でも取り囲むように囲んで、ぱちり、ぱちりと撮っていく人たち。その人たちを包んでいるものは、好奇心と幸福感を足して割ったようなものだった。見たことのないすてきな花が咲いているよ、ここに。そういう気もちが溢れていた。確かに立派な菊。だが、ほとんどの人は素通りしていく。みな目的地へ向かって、忙しい。まして写真に収める人など、なかなかいない。
 目の前に在るものを、特別なものにできる視線。それはなににも増して尊いものだ。生きている日々を、愉しいものとして受け止められる鍵に似たものだ。同時に、それは恐いことでもある。目前に在るものを、特別視することは。見るべきものは、他にもっといろいろ、あるかもしれないのだから。菊なんて写している場合ではないかもしれない人たち。菊の飾られた駅構内から出て、おもてを歩きまわる方がいいかもしれない。なにを見るか、どんなものの前で足を止めるか、つまり時間をどのようにデザインするかは、個人に任されている事柄だ。すべての日々は、そんな具合に出来ている。
 幾日か経ち、同じ場所をふたたび通りかかったときのこと。ともに歩いていた人が、歩く速度もゆるめずに、ぽつりと呟いた。「おいしそうな菊」。いわれてみれば、花盛りの菊は、おいしそうな菊でもあるのだった。おひたしや酢の物にすれば、おいしいかもしれない花だった。「お腹、すいてる?」「すいてない」。会話は途切れて、混雑する灰色の階段に差しかかる。電車の発車を告げるベルがけたたましく鳴る。だれもが忙しそう。菊花を愛でる時間など、なさそう。「子どもたちが進学で東京に出てから、うちの親は菊を作るようになった」と、その人は吊り革に掴まったまま、語りはじめた。そのとき、菊の前を通過してもなおその人が菊のことを話題にする理由が、わかった。「けっこう手間がかかるんですよ、菊は。毎年咲くと写真を送ってくれます」。片手で吊り革に掴まったまま、もう片方の手で、携帯に保存してあるらしい花の写真を探す。「あれ、おかしいな」。なかなか出てこないようだった。
 次に菊の展示されている場所を通りかかったときには、枯れかけていた。白、黄、赤紫。いずれも盛りを過ぎ、花弁はうっすら茶色がかって、時の経過をだらだらと唄っている。枯れていくのだな、とわかる。思わず立ち止まる。菊祭りの宣伝のための展示だから、祭りがおこなわれる町では、もっとたくさんの菊が枯れようとしているはずなのだった。駅構内の菊は、枯れかけて心ぼそい。けれど座ることもできずに、立っていた。
 ない、と気づいた。菊の鉢植えはもうひとつもなかった。東口と西口、それぞれからの人波だけが、相変わらずだ。終わったのだ。とはいえ、終わったものとはなんだろう。菊祭りか、それぞれの株の命か、場のにぎわいだろうか。消えたものに気づく人は、どれだけいるだろう。みな目的地へ向かっていて、忙しい。どこの町の菊祭りのことだったのか、ふと忘れ、浮かんで来ない。







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