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評者◆添田馨
歴史の影になった部分から響く沈黙――高橋秀明著『影ノ歌』(響文社)
影ノ歌
高橋秀明
No.2892 ・ 2008年11月01日




「第九条の条文とは、戦争の野蛮と悲惨を知った日本語族の言葉がまず内から感応すべき歌だったのではないか。正気と狂気の彼方の極星を奇跡的にも占めて、いまも見ひらけば煌めく歌ではないか。」(「詩とは何か――日本海追分ソーランラインの旅」より)――高橋秀明が詩集『影ノ歌』(響文社)のなかで述べているこの言葉に、私は戦慄に近いものを感じたのだった。理屈ではない直接性の言葉として、そう感じたのだった。
 詩歌として書かれたのでは決してないにもかかわらず、詩歌よりも一層激しく、そこに「歌」を感じさせてしまう言葉があるのだということを、高橋氏のこの文章は伝えている。彼が言うように日本国憲法「第九条」がもしそのような種類の言葉だとするなら、私たちにそう感じさせてしまう根本の動因とは、一体いかなるものであるのか。
 私たちが現実から受けた経験を、書かれた言葉が奇跡的にも歴史の共同性の側へとデザインしおおせる時、その言葉はまちがいなく自らが意味する以上の、ある種超越的な意味の虹彩を帯びることがある。しかし言葉の持つこうした過剰な表出性に関しては、これまで文学批評の分野で真剣に取り組まれた以外には、思想論としてもほとんど不問に付されてきた。高橋氏が「第九条」の条文を「歌」だったのではないかと反語的に語る時、こうした諸前提がそこには幾重にも折り込まれているのだと思う。
 詩について言うなら、私たちは言葉をガラス細工のように〝デザイン〝したものが詩だと考えがちである。無論、それは間違っていない。だが本当は、かつて「戦後詩」と呼ばれた一連の詩群がまさしくそうだったように、言葉がデザインする私たちの共同経験の内容のほうが、出来映えとしての〝詩〝よりもずっと重要な場合もあるのだ。「第九条」と「戦後詩」――そこに共通するのは、歴史の影になった部分からいまだ鎮静しない沈黙となって響いてくる、この国の死者たちの声なき声による圧力に他ならないのだから。







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