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評者◆蜂飼耳
後ろすがたの女
No.2892 ・ 2008年11月01日




 デンマークの画家、ヴィルヘルム・ハンマースホイの展覧会を観に行った。以前、オルセー美術館蔵の「休息」を見たことがあり、それ以来、気になっていた画家だ。「休息」は、椅子に腰掛ける女の後ろすがたを描いた、灰色がかった薄暗い絵。どんよりと静まり返った、曇り空にも似た雰囲気が好ましい。会場を巡ると、その「休息」も展示されていた。
 ハンマースホイは、女の後ろすがたを多く描いている。調度品が最低限に抑えられた、生活のにおいの少ない画面のなかにいて、女はその背中ばかりをそっと見せる。もしくは、ときおり、横向きのすがたを。そうして、手のなかの本を読んだり手紙を読んだり、完成したらなにになるのか、編み物にいそしんだりしている。顔は、見せない。けれど、画面を見ていると、心は鎮まる。その女が、見ている側を少しも気にしていないからだろうか。見られていることなど知らず、ひっそりと、ただそこにいるからだろうか。孤独だが、安らかだ。つまりそれは、人に見せるつもりのないすがたなのだ。女のモデルは、妻イーダだという。「ふたりの人物像(画家とその妻)、あるいは二重肖像画」は、テーブルにつく画家とイーダの絵。白いクロスのかかったテーブルにはなにもない。ふたりは視線を交えず、けれど向かい合って座っている。作者は、自分でもこの作品を気に入っていたらしい。展覧会のカタログから引くが、「じつのところ私は背を向けているので、厳密な意味では肖像ではないのですが、私はその点がとても気に入っているのです」という言葉が、書簡に残されているという。近距離で目を合わせずにいる人物たちのすがたは、引きつるような緊張とともに、なぜか安堵を運んでくる。これが、もし、互いの顔を見守りながらの団欒の場面だったら、どうだろう。観る者の入る余地のない、穏やかだが完結した画面になるのではないか。
 なにをしているのかわからない後ろすがたもある。ぼんやり立っているのか、それとも、なにか読んでいるのか。そうして、部屋のドアや床、床に落ちる光ばかりが、しっかりと描かれる。だれもいない室内の絵もある。人間がいないと、とたんに、ドアや床や壁やソファーが、人間の代わりであるかのように存在を主張しはじめる。とはいえ、声高にではない。あくまでも、声低く。ハンマースホイには、木や森や宮殿など、屋外を描いた作品もあるが、魅力が光るのはやはり室内の絵だ。三七〇点あまりの作品のうち、室内画は三分の一にあたるという。室内を描きながら、人に人を近づけようとはしない。その方針は徹底している。
 いきいきとした画面ではない。けれど確かに、ひっそりと脈打つ。ドアも床も壁も椅子も。はっきりと生きてはいないから、はっきりと死ぬこともない。無時間へと、際限なく傾く。そんな画面だ。「読書する女性、ストランゲーゼ30番地」は、フェルメールの「手紙を読む青衣の女性」を想起させる作品。部屋のなかに立ったまま、小型の本を開いてうつむくイーダは、横向きに描かれるが、顔は見えない。どんな本を読んでいるのだろうか。永久にわかりはしないそのことが、気になりはじめる。テーブルクロスは赤く、コーヒーカップは、疑いもない白さだ。その女を、守ると同時に縛るものたち。画面には、居場所がある。描かれている女の、居場所が。静かに止まっているような画面だけれど、本を読んでいる女の目のなかでは、まさにいま、文字の列が動いているはずなのだ。
 絵の前から、そっと離れる。ハンマースホイが自分の周辺に対して持った距離感を、大切にするような気もちで、後ずさりし、離れる。鮮やかな色彩や変容しつづける作風ばかりが人を魅了するわけではない。ハンマースホイの絵は、言葉を発しないまま、執拗にそのことを語る。確信をもって。三枚、四枚と辿るうちに、いつのまにか説得されている。







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