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評者◆蜂飼耳
奇談異聞の猫、鼠
No.2888 ・ 2008年10月04日




 いまに猫を飼うかもしれない、とある日にわかに知人が口にした。飼いたいわけではないけれど、そんな気がする、という。名が、ついているのかいないのかも知らない猫が、自分の持ち物である自転車の下へ入り、わずかな日陰に憩うのだという。触れたことはない、お互いになんとなくそんな距離、と呟いた。飼えば、飼えば、と勧めた。私のところには一匹いて、カルシウム剤を噛み砕く音にも驚く。人間が好きではない猫。撫でると、迷惑そうな顔つきをする。あまり撫でない。他に行くところもないので、私の許にいるのだが、これはこれで縁というものだろう。毛だらけの相手は、その日の食べ物のことだけ気にかけている。
 柴田宵曲の編による『奇談異聞辞典』(ちくま学芸文庫)を見ていた。江戸時代の奇談随筆からの抜粋を、五十音順に見出しをつけて配列した本だ。「か」の項に載っている「眼病と猫」。神田久右衛門町にいた大工某が、妻も亡くし、独りで男猫を飼って暮らしていた。夕方、仕事からの帰り道には「人に土産持帰るやうに、猫のくふべき物を求めて戻る」。
 この大工が、あるとき眼病を患い、医者から難病だと宣告される。猫に与える魚なども求めかねる状態だ。それで、ある夜、大工は猫に向かって、窮状を述べる。この眼病はとても治りそうにない。かわいそうだけれど、おまえに食べ物をやる余裕もないんだよ、と。そう語りかけているうちに眠りこむ。すると、どうだろう。「猫頻りにその者の両眼を舌にてなめければ、ふと目覚めて驚ろきけるが、それより夜となく昼となく、猫両眼をなめければ、不思議や眼病次第に快方なし、終に一眼は治したり。その頃よりかの猫の一眼つぶれ、後いづ方へ行きしや戻らず」。大工は、猫がいなくなった日を命日として、お経や香花を供えた。
 一眼、というところが心に残る。両方ともぱっと治ったわけではなくて、片方は、よくなったのだ。独りの大工と一匹の猫。仲よく暮らしていたのに、猫は身代わりのように病み、すっと、すがたを消した。身代わり、という言葉は本文に出てこない。けれど、猫が肩代わりしたと読める。これまで食べ物をもらってきたことの恩返しというわけだろう。文字数は四百字強の記事だが、短篇を読んだような印象が胸の底へ沈んだ。
 鼠に纏わる話も載っている。もちろん「ね」の項に。「鼠の薬」。「ある商人ありけり。楽しみあそぶ事もなく、たゞあまた鼠をあつめて愛しけり」。この一行に、目は吸い寄せられ、立ち止まる。他に楽しみもなく、鼠をたくさん集めてかわいがる商人。この一行を、いつまでもじっと眺めていたい気もちになる。日々の屈託や、個人にしかわからない楽しみといったことが、一行に詰まっている。
 ところが。ある日、鼠は主人であるその商人を噛む。商人の肌には紫色の斑点が浮き、熱が出る。商人は、鼠に向かってこういう。「予、汝を愛す。汝、予をかみてかくの如く悩めども、予、汝を憎まず、汝、何ゆゑにわれをかみて、かく悩ましても癒さんともせず、くゆる気色もせず、いかなる心ばへにや、浅まし」。叱られた鼠はどこからか草を運んでくる。毒を消す草を。解毒の効果が現われ、商人は恢復する。この記事は、丁寧にもこう締め括られる。「この事つくり物語のやうなれども、さにはあらず。近き頃の事にて、その商人物語りありて、その人にねもごろなるもの、名さへいひて語りしといふを聞きしなり」。猫も鼠も、書かれた物語のなかで、人の心を映す。
 奇談異聞とはなんだろう。結局は、それを見聞きした人の、心の現実を表わしたものではないか。人の心のなかでは、猫も鼠も、恩返しをするのだ。不思議でもなんでもなくて、心のリアリティーを言葉に置き換えたものだろう。そんなことが、あったかどうか、ではなく、そんなふうに世界を見ていたということ、その傾きが、燻したような輝きを放つ。







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