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評者◆田辺秋守
「映画の哲学者」スタンリー・カヴェルとは誰か――スタンリー・カヴェル著『哲学の〈声〉』(中川雄一訳、春秋社)を読む
哲学の〈声〉――デリダのオースティン批判論駁
スタンリー・カヴェル著 中川雄一訳
No.2887 ・ 2008年09月27日




 スタンリー・カヴェルとは誰か。カヴェルの名は、その名を知る者にとってかなり異色な日常言語学派の哲学者という像と、英語圏での「映画の哲学」の最高峰という像とで分裂していることだろう。だが、これら二つの像のほんのわずかすらも紹介されていない以上(邦訳されているのは『センス・オブ・ウォールデン』(法政大学出版局)だけである)、一般の読者にとってほとんど未知の著作家であろう。そこに、先ごろカヴェルの『哲学の〈声〉』(中川雄一訳、春秋社)が出版された。本書は、その二つの像をうまくつないでくれるが故に、カヴェルを知るのに格好の入門書となっている。
 全体は三章からなり、第一章はカヴェル自身の音楽体験と哲学との関係を回顧する自伝的な試みである。第二章は例のデリダ=サール論争を取り上げながらも、オースティンの精神的な弟子を自認するカヴェルとしては、技術的な弟子たるサールを一顧だにすることなく、オースティンの哲学の「声」について、デリダの読みに慣れた読者の目から次々と鱗をはぎとってゆく。
 だが、このコラムにとって重要なのは第三章の「オペラと〈声〉の貸借」である。この章にはカヴェル独自の映画論の要約があり、その上オペラと映画との関係について重要な考察があって、非常に啓発される。カヴェルは「映画はわれわれのオペラである」(二一九頁)と述べて、オペラと映画とのきわめて本質的な親近性を強調する。オペラの本質的な問いとは、「幸福あるいは不幸への必然性とは何か」という問いである。シェイクスピア的なロマンス劇の精髄が生き残っているのが近代のオペラであるというノースロップ・フライの見解を介して、カヴェルはさらにこの伝統が映画の二大ジャンル、すなわちロマンティック・コメディとメロドラマに受け継がれていると考える。
 実は、このオペラと映画との比較論には、カヴェルの未邦訳の二冊のジャンル論が背景にある。『幸福の追求――ハリウッドの再婚喜劇』(Pursuits of Happiness:The Hollywood Comedy of Remarriage,1981)と『抗議の涙――ハリウッドの知られざる女のメロドラマ』(Contesting Tears:The Hollywood Melodrama of the Unknown Woman,1996)である。
 カヴェルにとって「ジャンル」とは、映画産業によって生み出される大量生産品を区分するための概念ではない。ジャンルとは、分析と批評(つまりは哲学)に従って作品の「範型」を切り出してゆくことである。また、カヴェルのジャンル概念は、映画論でよく見られるような、なんらかの上位のジャンル概念から一群の作品をサブジャンルとして設定しなおすことでもない。『幸福の追求』は、映画史に通じている者にとっては、なるほどハリウッドの「スクリューボール・コメディ」を「再婚喜劇」というサブジャンルに読み替える試みだと思われるかもしれないが、そうではない。「再婚喜劇」はそれ自体がいわば独自のジャンルなのである。同様に『抗議の涙』は、文字通り「知られざる女のメロドラマ」というジャンルの研究なのだ。ただし、カヴェルにすれば、ハリウッド映画は「再婚喜劇」と「知られざる女のメロドラマ」を相補的なものとして分析しなければならない。それはなぜか。カヴェルは本書でその理由を的確に述べてくれる。
 「私がこれまでに練り上げてきた考えでは、映画の主題は――映画のなかの二つのジャンルである「コメディ」と「メロドラマ」から判断するならば――、女性の創造であり、教育を受けたい、自らの物語に声をもたせたいという女性の要求である(あるいは、かつてはそうであった)。それを結婚の可能性という形で描くのがコメディである。結婚という選択肢を拒否する形で描くのがメロドラマである」(二一六頁)。
 カヴェルが「再婚喜劇」として詳細に分析している作品は、『レディ・イヴ』(41)、『或る夜の出来事』(33)、『赤ちゃん教育』(38)、『フィラデルフィア物語』(40)、『ヒズ・ガール・フライデー』(40)、『アダム氏とマダム』(49)、『新婚道中記』(37)の七本である。「再婚喜劇」の作品群のなかでヒロインは、いったんは別れてしまった伴侶と必ず(広い意味での)再婚を果たす。「再婚」とは同じ伴侶との二度目の結婚のことである。スラヴォイ・ジジェクはどこかでこの再婚がヘーゲル的な意味での「二度目」であることを注記していた。つまり本当に正しい「知」とは二度目の「知」であること、この再認こそがヒロインに伴侶との関係が適正なものなのだという自覚を与えてくれるのだ。映画に描かれるこの再認のプロットがどれだけ観客をヒロインに感情移入させてきたことだろう。人々はいかにも再認したいのだ、自分の「声」のありかを、自分の「結婚」(他者との結びつき)の正しさを。これが「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」ではないという保証があるだろうかという疑念は措く。
 ちなみに、コーエン兄弟が往年のスクリューボール・コメディをパロディ的に復活させようとして撮った『ディボース・ショウ』(03)は、ストーリー的には「再婚喜劇」に該当するようでいて、その精神ははるかにシニシズムに沈んでいる。男女の愛の駆け引きというよりは、結婚と離婚から生ずる利益配分を争う功利主義的な喜劇であるこの作品は、むしろ「離婚喜劇」ともいうべき黒いジャンルに属するだろう。
 一方「知られざる女のメロドラマ」としては、そのジャンル名が直接由来するであろう『知られざる女からの手紙(邦題『忘れじの面影』)』(48)をはじめ、『ガス燈』(44)、『情熱の航路』(42)、『ステラ・ダラス』(37)などをカヴェルは論じている。多くのメロドラマでは、ヒロインは過去に関係のあった男性が、再会した自分にまったく気づかないとか、自分に関心を失っているという事態に遭遇する。すなわち自分が「知られざる女」として扱われるという仕打ちを受ける。この処遇は、女性の内奥にある「声」が軽んじられることである。メロドラマはヒロインがこの再認の欠けた状態において、かつ「結婚」の成就を断念することによって自己を創造する(自分の「声」を取りもどす)プロセスを描くのである。特に『ガス燈』はヒロインを挫折するオペラ歌手(「声」を失った女)という役柄に設定しているだけに、このことを鮮明に描き出している。
 「声」を喪失する過程を懐疑論と相即したものと考え、懐疑論の克服を哲学の重要な課題のひとつとするカヴェルにとっては、映画における女性の自己創造の姿は「道徳的完成主義」の一形態を表すものだ。後期シェイクスピアを端緒としてエマソンやソロー、イプセン、ニーチェを系譜とする自己創造の人間学。
 ひるがえって、カヴェルに問うてみたい。近年本数が増え続けているように思われる、棄民のようにうち捨てられた男たちのドラマについてはどうなのだろうかと。考えるべき論点だと思う。







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