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評者◆生野毅
「この世」と「我」の間に――池田澄子評論集『休むに似たり』(ふらんす堂)
休むに似たり
池田澄子
No.2887 ・ 2008年09月27日




 『休むに似たり』。先般ふらんす堂より刊行された池田澄子氏の第一評論集のタイトルから、私は小説家・藤沢周氏が「牡丹バロック・蕪村」というエッセイの中で、蕪村の
 牡丹散りて打ちかさなり ぬ二、三片
の一句をめぐって、「実存からの一歩後退。さらに、その自らの姿を諦めながら見ている蕪村……。」と記していたのを思い出した。
 俳句はあたかも、日々日常の余白を一行一行穿つようにして書かれてゆく。それ故、余人の眼には俳句も俳人も日常から「後退」した、「休むに似た」ものの姿として映ることもあるかもしれない。だが一見「休むに似た」「実存からの一歩後退」を果すには、自らが強靭にして繊細な実存者たらねばならない。俳人とは「俳句であらせるために自ら下ろす我慢の錨と、既に在るものから離れようとする翼との間で、初めての一句に巡り合いたいと願う」(『休むに似たり』所収「現れてみないことには」より。以下の引用はすべて本書より)、虚空に自らを吊し切りにする試練に耐えてゆく者のことだ。
 九歳の時に父親が中支で戦病死して以来、「死別恐怖症」に悩みながらも、池田氏は一人の女性として俳人として、「休む」どころか究めて真摯で意志的な生き方を歩み通してきた人である。
 同時に、父の死ー敗戦の経験が氏の中に「シラケに似た客観性」を生み、「謳い上げない俳句形式に辿り着いた」とも言う。本書の中で「この世の俳句に出会った。」「あの世があると思わないが、(……)『あの世はある』と無理にも思う。」といった箇所がしばしば印象的だが、それは他者と共にこの世に在る私、ひいてはこの世そのものを他者として見つめようとする意志のあらわれだ。それ故、本書の前半部を占める師・三橋敏雄氏をめぐる記述(父と共に三橋氏との永訣は、池田氏自身の生の通奏低音として、本書の随所を浸潤している。)の中の「三橋敏雄にとって俳句とは「我」も亦その一部である「この世」を曝すための器であった。」という一節が強く響いてくる。
 虚子、西東三鬼、三橋鷹女、高屋窓秋、折笠美秋、摂津幸彦、金子兜太、正木ゆう子、高山れおな、等々、故人、現存の作家たちの「客観性」と「我(私)」との間の実存の軌みと俳句の生成過程を透徹したまなざしで見つめながら、本書における池田氏の散文そのものが他者と「我(私)」の間に鋭く屹立し、白光する結晶度をたたえている。







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