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評者◆秋竜山
ちょっとそこまで、の巻
No.2886 ・ 2008年09月20日
矢野誠一『落語とはなにか』(河出文庫、本体七二〇円)を読んでいたら、面白い個所にぶつかった。〈落語家の藝と生活〉というところで。〈歩く〉という行為について、である。
〈あれはいつ頃のことだったか、某新聞のベテラン演藝記者と、お茶をのみながら雑談をしていた際、たまたまある落語家のことが、ふたりの話題にのぼった。そのとき、その記者のひとが、「そういえば、きのう車のなかから彼をみたなァ、神田を歩いていたよ、××と」ともうひとり別の、やはり落語家の名前をあげてから、ほんのちょっと考えて、続けたものである。「歩いていたんだよ。ふたりして。そういえば、落語家っていうの、よく歩いてるね。こりゃあ歩くっていうことと、落語家を結びつけて、かこみものができるなァ」〉(本書より) 本書では、落語家と歩くということを結びつけてとらえているのであるが、よく考えてみると、歩くという行為は生活の中でなんでもない当り前のことであるが、面白がって考えてみると、面白いのである。街へ出るとぶつかりあうようにして大勢の人が歩いている。又、野の一本道を一人歩いている姿があったりする。その、歩くということ。つまり、人間は歩くということだ。なんて、話を大きくしてしまうと、ちっとも面白くない。ここで、歩くということは、自分の知っている人が歩いているのを見かけた。もちろん、その人は、こっちが見ているのも知らないで歩いている、とか。なんらかの用事があるから、そこを歩いている。なんの用事もないのに、そこを歩いているとか。家から一歩外へ出ると、歩いている人間になる。顔みしりに声をかけられる。「オイ、どこへ行くんだ」「ウン、ちょっとそこまで」「アッそう。じゃァ気をつけて……」といった会話になる。どこへ行くんだ!! と聞かれると、これはメイワクなことである。どこへ行こうが行くまいが俺の勝手である!! というわけだ。聞くほうも、どこへ行こうと行くまいと、どーでもよいことだ。これは、たんなるアイサツのための一言である。「ウン、ちょっとそこまで」と答えるのであるが、大概が、そのように答えるようだ。私などは、この言葉に調法している。外国へ行くのに「ウン、ちょっとそこまで」がつかわれたりするものだ。「ウン。ちょっとそこまで」というのもアイサツ語であるから、「ちょっとそこって、どこだ」なんて、聞くものもいない。大きなお世話ということになるからだ。そういうことは誰でもわかっていることだ。「オイ、なにを書いているんだ」「いや、別に」と、いうようなものである。 〈ふつうのサラリーマンなどは、おもてを歩くという、たいへんに日常的な行為をとりあげてみたとき、おそらく個性などというものは埋没されているはずであり、とてもそこに特殊性は見出せまい。それが落語家のばあいには、ただ街を歩いているだけで、自分の職業を他人に認めさせることができ、歩くというなんでもない行為に、ある意味を与えることができる(略)〉(本書より) 歩いていることを見られてほしい場合と、見られては困る場合がある。だから、歩くということはむずかしい。歩く動作には、いろいろな表現がある。有名なのは師走に入ると、「セカセカ」と歩く。時間がからんだ歩きかただ。師走に限らず世の中セカセカしている。 |
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