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評者◆蜂飼耳
No.2886 ・ 2008年09月20日




 苦手なもののひとつは飾り物の壺だ。ホテルのロビーや中華料理店の玄関に置かれているような、つるりと鮮やかで欠けたところのない壺。目に入ると、必ず吸い寄せられる。一瞬、どうしてこんなところに置いてあるのだろう、と訝しく思う。問うまでもなく、飾られているのだが、口が開いており中は空洞なので、なにかの用途に向かって一時的に放置されている印象だ。それを受け取り、一旦どきりとし、次に、飾られているのだと納得する。いかなる壺を前にしても、そういう印象の手順を踏む。花瓶では、そうならない。置き時計でもならない。壺のときだけ、必ずそうなる。
 壺が置かれているのは、待ち合わせの場所だったり、人が通過する場所だったりする。じっくり眺める人は少ない。なかなか来ない相手のことや別れ際の挨拶に忙しく、気を取られ、そこに在るだけの壺などに構っている暇はない。居るのに、注意を払われない人。壺はいつでもそんなふうに、往来の場に紛れこむ。
 この感じを、ぴたりと言い当てた言葉がある。まど・みちおの詩だ。「つぼ(1)」は、こんな四行。「つぼを 見ていると/しらぬまに/つぼの ぶんまで/いきを している」。壺のそばへ寄ると、なにやら息苦しくなるのは、そのせいだったのだ。飾り物の壺には、仰々しさと威圧感があるけれど、それは「いき」で表わせることだったのか、と知る。「つぼ(2)」はこんな五行だ。「つぼは/ひじょうに しずかに/たっているので/すわっているように/見える」。壺という壺は、立っていても座っているように見えるものなのだと知らされ、と驚く。木やビルや電信柱はどうだろう。東京タワーや富士山は。立っているそれらは、みな座っているようでもあるのだ。どんな場所で壺を目にしても、必ずこの二つの短い詩が甦る。短いから覚えていて、壺の前に立ち、胸奥で暗誦することになる。壺はそのすべてを、いつまでも開いたままの口からするりと飲みこむ。飲みこんだまま、なにも出さない。息苦しくなり、その場から離れる。
 中華料理店の出入口に、大人の背丈ほどもある壺があった。白地に、赤や青の花鳥が散りばめられて、動かない。冷たい艶が流れる。そばの椅子に腰掛け、見たくもない壺を眺めた。まったく、見たくない。けれどいつのまにか目測している。すっぽり、入ることができる大きさだ。棺にも風呂にもなりそうだった。
 そのとき、店員が脚立を運んできた。手には黒い長傘。あれ、と見ていると、脚立にのぼる。なにか落ちたのだ。長傘の先で壺の底を掻くように探る。見ていると、引き揚げられたのは子どもの帽子だった。いったい、どうして入ったのだろう。投げたのだろうか。帽子はそばにぼんやり立っていた少年に、返された。店員と少年が消えた後も、壺を包む空気は落ちつかず、いがいがと、ざわついたままだった。立てつづけに咳をした口のように、なにか整えようとしていた。
 さっきの少年は、入るかどうか、帽子を投げてみたのだ。きっとそうだ。入りそうに見えたので投げたら、本当に飲みこまれてしまったのだろう。試してみたかった気もちも、わかる。予想通りだったという衝撃と気まずさも。そばには、なにで出来ているのか、模食の月餅が静かに積まれていた。壺は先の出来事を忘れたように、ぽかんとそこに在った。
 その場から去ったり、通り過ぎたりすれば、たちどころに忘れてしまう壺。中途半端な壺の数々。がらんとした空間にとりあえずなにか置いておく、ということなのだろう。ロビーや出入口を使う人に、一時的な存在感を送る。役目はそこまで。だから、いつまでも記憶に残るようなものであったら、かえって困る。冷たいその肌に、触れようとする人はいない。そういう場所に飾られた壺は、無視されてはじめて壺になる。息を殺して、壷になりつづける。







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