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評者◆丸川哲史
北京オリンピック雑感 空虚なセレモニーと精神の空洞化――満足な文化的生活も送れない農民工たちが対極に
No.2886 ・ 2008年09月20日




 中国にとってこの度のオリンピック開催という「国家」的事業は何を意味したのか、未だその評価が落ち着いていない時点ではあるが、まずは「記録」としても感想を留めておきたい。開幕式のセレモニー(演出)がどのようなものになるのか、想像した以上に中国の人々の間では関心が高かった。私自身は開幕式の日は北京にいなかったので、北京と地方の落差も観察することができた。相対的に年齢の高い人々は、好感を持ったようだ。しかし、いかにも大掛かりで明るすぎる「演出」にうんざりしてしまった、という若者も多かった。また確かに地方の眼からすれば、北京だけでバタバタ何かやっている、という印象もある。その一つの潜在的な背景として、オリンピック期間において、北京での道路工事、施設建設などが全てストップしており、いわゆる地方からの出稼ぎの「農民工」たちは、ほとんど地方に帰されている現実がある。このことの意味はやはり考えてみるべきだろう。オリンピックが終わり、また静かに農民工たちは、一ヶ月前と同じように北京の路上で、また建設現場で働き始めるのだ。
 確かに、あの張芸某による演出は、形式だけが異様に巨大化・進化している分、メッセージ性はほとんどなく空疎で抽象的であった(また過度な自己オリエンタリズムも)。特にインテリを中心に「商業主義」批判もあるわけだが、中国の場合にはそれがいわゆる改革開放以降の「現代化」の功罪とも絡まってしまう。改革開放(一九七八年)から、さらにトウ小平の南巡講話(一九九三年)以降、中国政治は、「安定団結」というスローガンに象徴されるように、とにかく不満や異なった意見を顕在化させず、すべての国民的エネルギーを経済的チャンネルに流し込むという方針で走って来た。そういったことが、あの演出の空虚さにも反映されているように見える。にもかかわらず、何故かくも国民があのセレモニーに関心を傾けたのか。まず基本的に、「百年間、国際的な表舞台に立てなかった中国がやっと認知された」という思いがある。この百年の時間は確かに中国にとって重い。中国がやっと「世界に向けて自身を表現し得た」という感慨がまずはあって、だから、内容はどうでもよかった、ということなのかもしれない。併せて、世界からの承認の願望がそうさせたのだろうか、北京市内のこれまでに無いほどの「厳戒体制」にしても、大きな不満の声にまでは成長しなかった。
 振り返ってみて、セレモニーの中で唯一メッセージ性があったのは、かつての革命歌で歌詞を少し変えて歌われた「五星紅旗が風にはためく、勝利の歌声は……」ではじまる「歌唱祖国」だけであった。この歌は、「口パク」であったとして批判されていたが、実は年齢を問わず大陸中国人内部では好評であった。「高い山を越えて、平原を越え、逆巻く黄河長江を跨いだ」という部分などは、革命世代の思いを有効に吸引することができよう。さらにその前の「今こそ繁栄富強に向かって」は経済成長の物語に、また一番の歌詞の最後の「私たちの団結と友愛は鋼の如く強い」という部分は、国のまとまりへの祈念もこめられる……という具合である。日本のメディアでは、「いまだに革命歌なのか?」という受け止め方もあったようだが、唯一ここだけに内容(メッセージ性)があった、ということはまた皮肉なことではある。さらに、この革命歌の演出の最中、台湾から来ていた国民党関係の来賓が複雑な顔をしていたことは、また興味深い。セレモニー(演出)の抽象性は、もしかしたら大陸中国以外の「華人」に配慮した結果である、との見方も可能かもしれない。そして、閉幕式での北京からロンドンへの「橋渡し」セレモニー。黒人歌手がツェッペリンの曲を歌っていたが、そこで日本のメディアでは、「多様性のロンドン」というスローガンを強調していた。ポストコロニアルの基盤での「多様性」を寿ぐことは、まさに現代的な「帝国」のあり様である。私はここで、アヘン戦争が全く忘却されていることに、愕然ともした。アヘン戦争は、被植民の歴史の始まりでもあり、中国の西洋基準の世界への適応の始まり(ウェスタン・インパクト)でもある。
 ここで一つ、オリンピック全体の問題として考えてみたいのは、中国の金メダル獲得の多さである。これはやはり、人材を金メダル候補に絞って国家が過度に「投資」した結果である。オリンピックが西洋によって発明された国威発揚の場であるとするなら、長いスパンを通じた精神史において、こういったあり様は明らかに過剰適応である。この過剰さは、中国におけるスポーツ・健康の概念を極度に捩じ曲げているように映る。常識的な意味での「国民の健康」という課題が空洞になっているか、あるいは忘れ去られているからだ。現に、中国において安心できる医療にかかるのは、低所得者層にとっては不可能なこととなっている。ここからも、現在も毛沢東時代の「平等主義」への回帰願望が庶民に根強く存在する「要因」を推測できる。標準的な医療へのアクセス、健康を守る機会から閉ざされた人々が現に存在するのである。実際には必ずしも理想的ではなかったにせよ、毛沢東時代には「人民服務」という概念が本気で信じられていたし、また実践されようともしていた。
 極端な構図を描けば、こういうことになる。満足な文化的生活もおくれない人々(農民工など出稼ぎも含む)が一方にあって、その対極として、それらの人々の生活の要求とは全く関係のない巨大で明るすぎる空虚な文化イベントが首都で行われた、という構図となる。もちろん話にも聞いていることとして、農村における「国民健康保険」が徐々に制度化されようとするなど、緩慢ではある「国民の健康」が再確立されようとはしている。しかしやはり問題なのは、今回のオリンピックで明らかになった(目に見えない)中国人の精神性=文化の空洞化である。オリンピックによって、確かにいわゆる「百年の屈辱」が雪がれたとしても、ではその後は? この後は何を目標とするのか……。日本にもかつて「成功神話」というものがあり、またそれがどこかでその惰性を保ったまま、日本人の現在の精神性を規定しているとして、中国もおそらくそのような「成功神話」を持つこととなろう。しかしより中国の方が、その「成功神話」に対する疑義を今後深める傾向が強くなるだろうことも予想し得る。
(在北京、東アジア文化論・台湾文学専攻)








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