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評者◆小野沢稔彦
「私たちのドイツ」という共同幻想を徹底的に笑いのめし、シャレのめす――ダニー・レヴィ監督『わが教え子、ヒトラー』
わが教え子、ヒトラー
ダニー・レヴィ監督
No.2885 ・ 2008年09月13日




『わが教え子、ヒトラー』(ダニー・レヴィ監督)は、国家と独裁者、そして独裁者を必要とする国民の「私たちのドイツ」という共同幻想を徹底的に笑いのめし、シャレのめす試みとしてあるのだ。つまり、クソ真面目に「国家」に向き合おうとする姿勢をズラし、国家を成立させる国民のあり様を問う壮大な喜劇として、制度と化した映画そのものを問うと同時に、「国家」を問う方法を新たに提示する映画として、別なレベルのリアリズムを開示する作品としてあるだろう。
 ヒトラーは「ドイツ国民」を必要とし、ドイツ国民はまた、ヒトラーを必要とした。そして、両者は自らのアーリア人という虚構のあり様を特権的存在として、他を差別化するために「ユダヤ人」を必要とし、ユダヤ人はその「ユダヤ人問題」の最終的解決=絶滅のためにあらねばならなかった。そして、ナチスドイツは「民主主義国家」と無縁であるどころか、西欧民主主義そのものの中から生れたモンスターであった。第二次大戦は、この同根から生じた二つの陣営の国家間戦争ゲーム――その中で数千万人もの人が死んだ――だったのだが、そのゲームの不毛で茶番でしかない内実を、「ファシズム国家・ドイツ」を徹底的に暴き出すことによってD・レヴィは、国家の実体が実はまったくバカらしい形式主義のつみ重ねにしかすぎないことを白日の下に曝したのである。
 ドイツ国民には、そのアイデンティティを表象するヒトラーという〈父性〉が必要であった。この時、ヒトラーという個の内実などドイツ国民にとってはどうでもよく、ただ〈私〉のヒトラーという――私の癒しとしての――役割を演じてさえいてくれればよい存在なのである。勿論、ヒトラーもそのことを充分に分っていて、ヒトラーを演じ、ドイツ国民の望む――他国領土への侵攻と、ユダヤ人絶滅――施策を確実に実行していったのだ。この時、彼が必要とするのは〈力=ゲヴァルト〉と〈組織=官僚機構〉なのだが、戦争へと走り始めてしまえば、それは国民の支持と後押しによって、自ずと自己増殖し強化されるものとしてある。しかし、戦争には相手がある。ヒトラー政権に敵対する民主主義国家、なかんずく「共産主義ソビエト」の存在が、ヒトラーの前に立ちはだかり、戦線は進展しないばかりか、その反撃はドイツ国家そのものを灰燼に帰そうとする。するとヒトラーはにわかに自信喪失。危うしヒトラー=ドイツ国民共闘。すると、官僚制度はヒトラー再生のために、あろうことかユダヤ人役者を、強制収容所から招聘しヒトラーをヒトラーにもどす破れかぶれで、周到な作戦を開始する。こうしてユダヤ人教師とヒトラーとの奇妙で、猥雑で、いたわり合った親密な――なにせ互いの内面まで解り合える両者だ――関係が生れる。ユダヤ人とドイツ人との関係の見事なパロディ。ヒトラー再生のための身体訓練の始まり。
 ドイツ国民もまた、戦争の帰趨を感じている。なぜなら、首都ベルリンは瓦礫の山だ。しかし、そのことを直視することは、自らが自らでなくなることとなる。官僚も、その事態を前に次々と迷案(!)を案出する。その最大の仕掛けが、帝都ベルリンを映画のセットと同じような――所詮、映画はウソを本当らしく見せる仕掛けなのだが、映画を逆手にとったこの仕掛けは笑える。映画を観る者は、セットを観るのではなく、映画を観るのだ――書割りのベルリン、つまり、誰もが見たがっているベルリンを作り上げ、そこでヒトラーに全国民が望む大演説を行なわせようという訳だ。かつてのような、幻想の、偉大なドイツを想い起こさせる祝祭の日々。癒しとしての人々をウキウキさせた大演説(それもまた演出されたものだが)。この空虚で見かけだけの壮大なイリュージョンでしかないファシズム〈劇場〉は、何十万の国民を動員して挙行され、人々にあの日々を想い起こさせる。人々の熱狂するナチ版人民劇場の開花。スペクタクルは、その虚構性が大きければ大きい程に、参加する者および観客に巨大な「真実」として映る(オリンピックを見よ!)。例え、操り人形としてのヒトラーであろうと、書割りの首都であろうと、誰もがそこに同意し、共感し、希望を見ることができれば「幻想としての国家」は偉大な国家であり続けることができる!!
 選ばれたユダヤ人教師は、その正義心から様々な策略を使ってナチ官僚に対抗しようとするが、所詮そんなことは、国家にとってどうでもよいことなのだ。官僚は、取引に次々と応じつつ、ヒトラーがヒトラーを演ずることができる方向のみが追求される。そして、ヒトラー、官僚機構、および国民が一体となって、更にはユダヤ人教師を含め、その作為された――誰もが、その劇場は虚構であることを判った上で、それを成立させたがる――祝祭の日がやってくる。まず、ヒトラーを演ずる生身の肉体としてのヒトラーがいる。ヒトラーの演説を支えるユダヤ人役者がいる。それを見守る――ヒトラーに同化したい――多数のドイツ国民がいる。全てが虚構の中で行なわれる虚構の祝祭劇は、ドイツ国民の胸の中には、美しい壮大な国家儀式として「ドイツ、世界に冠たるドイツ」の幻影を形成する。一方、映画の演出的にはこの祝祭は、ドラマと歴史的ドキュメンタリー――これもまた作りものではあるが――が渾然一体となって、見事にドイツ国民の心象を表象する。その最後に、ヒトラー暗殺劇のパロディがあり、ユダヤ人役者は殺害されるが、そんなことはドイツ国民の心象にとってはまったく関係はない。それにしても、チャップリンの『独裁者』を意識したこの演説シーンは、今日も続く「国家」を前にしてのD・レヴィのペシミスティックな心情が直截に表れていて、胸を打つ。
 最後に、映画は真実を語るなどといった、制度的イデオロギーを超えて、真実らしさを再現するのではなく、それとはまったく別のリアリティを提出するという、映画の方法にとっての新たな一歩を踏み出した記念碑的作品として『わが教え子、ヒトラー』があることを確認しておきたい。







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