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評者◆蜂飼耳
灯台
No.2884 ・ 2008年09月06日




 海沿いの道を歩く。見捨てられたような海の家に入る。客はひとりもいなかった。店の人もいなくて、やっていないのか、とおもてへ出ようとしたら、はい、いらっしゃい。真昼の薄暗がりの奥に、ほそい声がぼっと灯った。髪をひっつめにした痩せた女の人が、ラーメン、カレー、おにぎり、と唱えながら出てきた。「おにぎりください」
 なにが入ったおにぎりがあるのか、いわれなかった。いわれないから、選びもしない。脚の錆びた椅子に腰かけて、ぼんやり渚を眺めた。水のなかや水の外で遊ぶ五、六人のすがたを、太陽が灼く。なまなましく燃える。景色は煮え立つ。日陰に涼みながら眺める波打ち際の風景は、別の時代の出来事のようだ。
 「はい、おにぎり」
 海苔を着せられた真っ黒なおにぎりがひとつ、皿にのせられ、運ばれてきた。梅ね。低い声で言い渡す。おにぎりの中味は梅干しと決まっているようだった。選択肢などなく、ないことが、その場には合っていた。厚切りになっちゃった、と笑うので、見ると、たくあんがそえられていた。おにぎりよりもずっと元気のいいたくあん。黒いおにぎりを齧ると、ご飯はぐったり、やわらかく、にわかに疲れが漏れ出た。
 店のなかには、木の扉がいくつか並んでいた。海から上がった人のためのシャワー室らしかった。流す音はしない。水滴の音もしない。空のシャワー室が、ミイラの棺を立てたように並んでいた。おにぎりとたくあんを食べ終わると、皿の上は静かになった。食べ物の重みを取り除けられて、皿は元気を取りもどした。
 曲がりくねりながら上へ上へとつづく坂道を、のぼる。照葉樹が、少ない土を分け合うように生えている。争うようにも、生えている。すがたの見えない虫の声ばかりが降ってくる。虫の声を抜けると、灯台に出た。白い灯台、その足元のあおあおと輝く芝生、青空。海鳥、ヨット、貨物船、そして遠い半島。景色のすべては、欠けたところがないという寂しさを湛えて、風に煽られていた。
 受付の女の人は、見学料を受け取ると、スタンプと朱肉を出してくれた。訪れた記念のスタンプ。ノートを出してひろげると、集めてるんですか、と訊かれた。首を横に振ると、一枚の紙を渡される。ここに載っている灯台、三つ行くと、記念品がもらえますから。いわれてよく見ると、期限までは残りわずかだった。灯台だから、どれも岬の先端にある。どれも、それぞれに遠い。行きたいけど、ちょっと無理だと思う、と答えると、女の人はさらに熱心にすすめた。
 「全部じゃなく、三ヵ所でいいんです」
 時間的に無理だと答えると、残念そうな顔になった。もしかすると、このスタンプラリーに参加する人が少ないのかもしれない。載っている灯台、すべてをまわったら、どうだろう。そんなふうに、岬から岬へ、つまり端から端へ移動しつづけたら、なにか見えるだろうか。
 灯台の内側の螺旋階段をくるくるとのぼっていくと、てっぺんに出た。見渡せるものは、もちろん海。眺めるしかない海がそこにあり、船という船が沈まずに浮いていて、どれも進行方向へ進んでいた。後ろ向きに進むものはない。しばらく眺めて、階段を降りる。あたまをぶつけてから気づきそうな位置に、頭上に注意、と書かれていた。ぶつけなかったけれど、これはいかにもぶつけそうだと感心するような部分がせり出していた。
 額を打っていたら、不機嫌になって、帰りは受付を素通りしたかもしれない。けれども打たなかったので、並べられているパンフレットなど、またひと通りゆっくり見て、受付の人に訊いてみた。今日は、何人来ましたか。二十人くらい。みんな、下の浜までは来るけど、上まではあんまり、のぼって来ないから。女の人は、つまらなそうに答えた。灯台の受付をやってみたくなった。







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