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評者◆杉本真維子
詩人・北交充征のこと
No.2883 ・ 2008年08月30日




 毎日があまりにも目まぐるしいと、何をやっていたのか思い出せなくなるようで、私のいまの状態がそれである。この一週間は、長野、東京、宇都宮、と移動し、その間には本も読み、詩も数え切れないほど読み、原稿も書いた。合間には都内の夏のイベントにも出掛け、仕事を通じて人との新しい出会いも多々あった。それなのに、頭のなかがまっしろになっている。得たものが多いという実感だけはあるから、もう数日経って、時間に濾過されれば、それらは自分の言葉となって出てくるのだろうが、いま書こうとすると、指先が「まだ早い」と制止するのだ(熟すのを待てということなのだろうが)。どうしたものかと途方に暮れかけたとき、「ツェーエーゲー、ハーデーゲー」というフレーズが、突然、こころのずっと奥のほうから、聴こえてきた。
 
わたしは夜の海を/沖へ、/さらに沖へ/と、退行してゆく/それはツェーエーゲー/それはハーデーゲー/爪をかみながら/和音をおさらいした学齢を過ぎ/これはオッパイ/これがチンチンと/痴のはてに/幼児の舌足らずを/口まねしている/わたしは/ほんとうにゆるされていいのか/理性とよぶ蒸れた紙オムツに/オモラシしちゃっていいのですか/闇の中で/きはくな指先は/かすかに汗ばむピアノのうえをはいはいし/わたしのあえぎが/アバアバと、きこえている

 北交充征(きたかどみつまさ)の「ピアノ」という作品の一部で、1994年に思潮社より刊行された詩集『てのてのてろ』に所収されている。私はこの作品が好きで、とくにリズムが身に染み、何度も繰り返し読んだ。「ツェーエーゲー、ハーデーゲー」が、どうしてかこころに深く、落ちている。夜の海の「黒」と、ピアノの「黒」が重なり、触れるとすぐに指紋がついて汚れてしまうような、繊細なつやと質感。その表面で、人間の汗ばんだ性が蒸されているようななまなましさがある。
 さらにいえば、眠りと性と死が融合する「寝室」という場所の、独特のあの重い空気感も微かに絡めとられている。そこでいま、思い出したのは、幼いころ、近所の家で昼間遊んでいたら、夫婦の寝室に迷いこんでしまったことだ。入ってはいけないところへ入ってしまった、と直感し、慌てて逃げだしたのだが、そのとき感じた、暗く湿った後ろめたさのようなものが、ピアノの「黒」と人間の「汗」によって言語化されている。ついでに、これは余談だが、そのとき私はベッドが円形であることに仰天し、家に帰って、こんな珍しいものを見たと、面白がって、円形であることを物凄く詳しく家族に喋った気がする(とんでもない子どもだ)。
 そして、作品の冒頭も素晴らしい。一語一語、もれなくこころに馴染み、そんな一連に出合うことは滅多にないと思っている。読みながら、うんうんと、こころの芯の、まさに骨のような部分に触れてくるのだ。
 
音が腐ると/不安がピアノをみがかせる/わたしはなきだしたくなる/他人の指紋にべとつく鍵盤にむきあうたび/そこにすきとおった川を置こうとするたび/野ざらしの/骨のようなものだけをさわっていたい
 
 北交充征――。忙しさのなかで、頭が空白状態になっても、「ツェーエーゲー、ハーデーゲー」は、まさに夜の波のように、打ち寄せてくる。彼はこの詩集を出したあと、この世を去った。ネットで検索しても情報がないが、おそらく若かったはずだ。数年前、書店で選書を担当する機会をいただいたとき、この詩集を挙げ、そこで初めて、絶版であること、すでに亡くなっていることを知った。私は21歳のとき、この詩集に出合ったのだが、29歳まで詩の知人が誰もいなかったこともあって、それまで全然知らずに、十年以上も、次の詩集の刊行をだまって待ちつづけていた。あとがきの最後には「「次の詩集に向けて、目新しいネタでも拾ってこい」/毎日、ぼくはぼくに発破をかけている。」とあり、そこで時間がとまっているから、私もまた、次の詩集を待ちつづける気持ちのまま、とまっている。
 







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