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評者◆田辺秋守
「行為遂行的」な発話を魅力的に描く――エリック・ロメール監督『夏物語』(1969)を観る
夏物語
エリック・ロメール監督
No.2882 ・ 2008年08月16日




 今年に入ってJ・R・サールの実践理性編とも言うべき『行為と合理性』(勁草書房)が翻訳され、言語行為論三部作(『言語行為』勁草書房、『表現と意味』誠信書房、『志向性』誠信書房)と併せ、言語行為論の基本文献がほぼ出そろった感がある。
 言語行為論には、しばしば無味乾燥な分析という印象がつきものだが、映画の多様な会話を分析する道具としては、やはり真っ先に考慮すべき理論である。何しろ映画の映像トラックとサウンドトラックがまず写し取るのは、「言いながら何かをなす」(発語内行為)か「言うことによって何かをなす」(発語媒介行為)人物たちなのだから。そうした行為遂行的な発話を魅力的に描くことにかけては、エリック・ロメールに勝る監督はいないだろう。というわけで、ロメールの旧作ではあるが、『夏物語』(69)を取り上げたい。
 舞台は観光客でにぎわうブルターニュの海辺の街ディナール。一夏のヴァカンスを「恋人」とこの地で過ごすべくやって来たガスパール(メルヴィル・プボー)は、恋人のレナを待ちわびている。が、なかなか彼女はやって来ない。ガスパールは数学の修士課程を終えたばかりの学生で、休暇の終わりには、ナントの企業研修へと赴くことになっている。たまたま入ったクレープ屋でアルバイトをしていたマルゴ(アマンダ・ラングレ)に翌日海岸で声をかけられる(ガスパールは最初マルゴのことを思い出せない)。マルゴは人類学を専攻する博士課程の学生であった。意気投合した二人はその日から毎日のように散歩し、お互いのことについて会話する。
 この典型的な「ボーイ・ミーツ・ガール」ストーリーには、主人公が同時に三人の女性に気をひかれるという「ひねり」が加えられている。ガスパールはマルゴの誘いでマルゴの友達たちとディスコへ行く。その中のひとり、ソレーヌが熱い視線を送ってくるのに気づく。数日して偶然再会したソレーヌはガスパールを積極的に誘う。二人の仲は急速に接近し、ガスパールはレナのことも忘れてしまったかのようだ。マルゴに対しては、後ろめたさを感じつつも、友達としての散歩を続ける。そして、ついにレナがやって来る。
 この映画に頻繁に登場する言語行為は言うまでもなく「約束」である。サールの分類でいう確約型の発語内行為である。確約型の発語内行為とは、話し手を未来の行為にコミットさせるという目的をもつ発語の典型である。ガスパールはまずレナとディナールで落ち合うことを約束し、彼女のために「船乗りの歌」を作ることを約束し、そしてウエッサン島(フランス最西端の島)へ行くことを約束している。レナが約束の期日を守らなかったのは彼女の落ち度だが、その間にガスパールはできあがった「船乗りの歌」をソレーヌにプレゼントするという言質を与えてしまい、浮薄にも三人の女たちにウエッサン島へ行くことを約束してしまっている。
 誰との約束を優先するかで、すなわち約束と約束との間の選好にガスパールは窮している。また、絶えず女たちから誘いをかけられるガスパールは、指令型の発語内行為(命令・懇願など)に翻弄される意志の弱い男に見える。もっとも、自由意志論を信奉するサールからすれば、「意志の弱さ」は人間的自由の裏返しである。そこには人間に決定を促す最小限の「飛躍」が存在するからだ。サールの議論からすれば、ガスパールは「不誠実な約束」、すなわち「実行する気のない/実行できない」約束を連発していることになる。出来損ないのドン・ジュアンを地でいっているようにも見えよう(マルゴに「下手なナンパ師」だと揶揄される)。
 しかし、このように言語行為論的に素描されたガスパールの姿は、本当にガスパールの実像にふさわしいものだろうか。旧聞に属するとはいえ、デリダとサールとの間に生じた変則的な論争をここで想い起こしてみるのは、「約束」という言語行為を考えてみるのに有効である(J・デリダ『有限責任会社』法政大学出版局)。デリダはサールの「約束」の概念が標準性と理想化によって規定されていて、実際の言語行為を捉えるには、まったく無力であると批判する。また後期のデリダは、「約束」のもつ倫理‐政治的な含意を強調して、次のような注目すべきことを述べていた。「約束」は決して未来の行為へコミットさせることではなく、「今・ここ」で生じている出来事であると。「約束」を口にすることによって、仮にそれが果たされなくとも、未来を開いたままにしておく、ある独特な「メシア的な」事態であると。
 デリダの言うように、「約束」をそもそも反復されることによってのみ理解される出来事と解したらどうだろう。ウエッサン島へ行くという「同一の約束」があるのではなく、そのつど差異を伴った反復がガスパールの約束の行為遂行性なのだとしたらどうだろうか。ガスパールはレナの気まぐれとエゴイズムに抗して、ソレーヌの恋愛原理主義的な妥協を知らない要求に抗して、マルゴとの親密な会話が、反復され差異化される度に「今・ここ」という即時性を強めてゆくのを感じ、「約束は消去不可能なものである」という約束の意味論を学んでいるように見えるだろう。これこそ倫理‐政治的にいって、最も公正な態度に思われるだろう。
 問題なのは、言語行為の側面にのみ考察を限ると、サール、デリダ両者に従った解釈のどちらが優位なのかを決することはできないということだ。
 物語が終盤に近づき、三人の女たちとの約束をすべて果たすことができないことに苦悶するガスパールに、映画は「機械仕掛けの神」による救いを差し伸べる。手に入れたいと思っていたレコーダーの掘り出し物があるという連絡を受け、ガスパールは即座にその件を優先することに決める。出発の船着き場でガスパールはついに、マルゴに確信に満ちた言葉で問う。「これで落ち着いてウエッサン島へ行ける。いつにする」。だが、マルゴからは、思いもかけない拒絶の言葉が返ってくる。恋人が戻ってくるから行けないというのだ(明らかに虚偽の理由)。この最後のシーンには、時宜を逸することの悔恨、例えば漱石の『三四郎』にあるような「修学中」ゆえに時宜を逸してしまうような悔恨が漂う。マルゴは、約束の反復性に依存するガスパールに対して、約束が待ったなしだったことを身をもって(発語媒介的に)諭しているのだ。
 ラストに流れるシャンソンは、ギリシャ古典劇でいうコロスの声だ(レナが劇中ですでに口ずさんでいた)。「マルゴを残し/長い航海に出る/帆を揚げろ/サンチアーノ/胸が詰まるほどの悲しみを/サン=マロの灯りがいや増す」。エリック・ロメールがこの映画を構想したのは、このシャンソンからだと考えるのは穿ちすぎだろうか。







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