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評者◆今野元
生身の人間ヴェーバーの両義性に興味を引かれることはないのか──「知性主義の逆説」とは、きわめて現実政治的、日常生活的な問題である
No.2878 ・ 2008年07月19日




 第五部(二八七〇号)・第六部(二八七一号)では、ヴァイマール国制が扱われている。
 (一)①今野の「統一主義」(Unitarismus)という訳語は不適当で、「単一国家主義」が妥当だという批判‥この語に関しては私もよい訳がなく苦慮したので、別に「統一主義」が至当だとは思わない。ただこの語が連邦主義(Foderalismus)の対立概念であることを考えると、「単一国家主義」では誤解を招く恐れがある。なぜならUnitarismusだけでなく、実はFoderalismusも、「ライヒ」という「単一国家」の存在を前提としているからである。もしUnitarismusを「単一国家主義」と訳してしまうと、Foderalismusが「ライヒ」を解体して国家連合を目指す発想であるかのように見える可能性があるだろう。
 ②ヴェーバーはUnitarismusを望ましいとしつつも、現段階では大ドイツ主義的国家統一のために連邦主義に傾斜せざるを得ないと見ていたのだから、今野のように統一主義をヴェーバーの国制構想の三大要素に数えるのは不当だという批判‥この経緯については、私は雀部とそれほど認識を異にしないが、だからこそ私は統一主義を国制論の三大要素に数えるのである。ヴェーバーの気持ちは飽くまで統一主義にあり、大ドイツ主義的国境画定を実現するための方策として連邦主義的要素を加味したに過ぎないのだから、ヴェーバーがそもそも直接に連邦主義を志向したかのようには言えないはずである。
 (二)ヴェーバーがアメリカ元老院(上院)をモデルに「分邦院」を構想したという今野の理解は誤りで、ヴェーバーはそれを望ましいとしつつも無理だと診断したのであり、実際には三月革命のフランクフルト国民議会で提案された連邦主義的機関が提案されたのだという批判‥私はヴェーバーがアメリカ・モデルを直輸入し、その実現を目指していたとは全く考えていない。彼はアメリカ元老院などを参考に「分邦院」構想を提示したが、連邦主義的な傾向がかくも強まっている現下の状況では、連邦評議会(Bundesrat)的なものの復活が避けられないだろうと述べたと説明したのである(本書337頁)。ただヴェーバーがアメリカ国制を参考にしたこと自体は、否定すべくもないだろう。私は寧ろ、雀部が熱心に「アメリカはアメリカであり、ドイツはドイツである」と両者を切り離そうとしていることに不自然さを感じる。
 (三)ヴェーバーのヴァイマール大統領制構想について、今野はアメリカ・モデルへの傾斜を一面的に強調し、ドイツ固有の様々な事情が考慮されていたことを見逃しているという批判‥確かに私は基本路線としてのアメリカ・モデルを重視したが、それは勿論隅から隅まで模倣したということではなく、重要な事例として熱心に参照したという意味である。また私が当該箇所で強調したかったのはイギリスからアメリカへの転換というアングロ=サクソン圏内部での重心移動で、アメリカに彼の国制構想の全てを帰する意図はない(本論331頁)。雀部は私を批判する文脈で、ヴェーバーの言葉を引用しつつその国制構想を「国民投票的大統領制と代表制的議会制が並存する国民投票的=代表制的統治」(強調はヴェーバー)と特徴づけて、大統領主体のアメリカよりも議会に重心が寄っていることを強調しているが、私は大統領と並ぶ要素としてヴェーバーが議会を見ていたことを明確に指摘したはずであり(本書339頁)、しかもそれに該当する私の記述を他ならぬ雀部本人が自分の「書評」のすぐ次の段落で引用しているのである。ちなみにここで、ヴェーバーへのアングロ=サクソン圏の影響に関する事実をもう一つ示してみよう。敗戦前後の内政改革構想において、ヴェーバーはドイツ的青年教育機関であった学生組合を否定し、アメリカ式の「クラブ制度」によるべきだと断言していたのである(本書310頁)。ヴェーバーのアメリカとの密接な関係については、この戦後期も含めて、今後より精緻に分析されるべきだと思われる。
 (四)モムゼンがヴェーバーを、カエサル主義的人民投票的民主主義思想とライヒ大統領のカリスマ的指導者としての地位の確立を目指す憲法構想によって、意図せずにヒトラー体制への道を開いたと批判したことについて、雀部が反論していることをどう思うかという問い‥これは雀部の『ウェーバーとワイマール』第三章に関する問題提起であろう。私はヴァイマール共和国末期に関しては素人だが、この問題にはいずれ本格的に取り組んでみたいと考えているので、ここでは差し当たり四点ばかり述べておきたい。
 ①私はヴァイマール共和国末期の政治情勢について、ヒンデンブルク大統領周辺の保守派とナチ党とを反ヴァイマール・デモクラシー派として安易にまとめ批判しようとする傾向には、やや懐疑的な態度を取っている。強い議会中心主義の立場から、「大統領内閣」こそヴァイマール共和国の墓掘人だとし、その「反省」の上に立って戦後ドイツの連邦大統領が象徴的存在に止められたとする説明には、論理の飛躍を感じるのである。この意味で、私は直接公選大統領制の提案者ヴェーバーをナチズムの呼び水と見るモムゼン説を安易とする雀部の立場には一定の理解がある。ただヒンデンブルク周辺の一部保守派がナチズム擡頭に抵抗したとしても、それでは彼らが一体何を目指したかという問題、シュミットのようにのちにヒトラー政権に迎合した大統領周辺の旧保守派がいたことをどう見るかという問題は残ると思う。
 ②気になるのは、雀部の説が本当に新しいのかということである。雀部自身が依拠している文献が示すように、この種の議論はコンツェ、フーバーらによってすでに半世紀前から行われていたものであり、日本の現代史研究界でもすでに詳しく紹介されている(平島健司『ワイマール共和国の崩壊』108―118頁)。ただそうした論調をヴェーバー研究に大規模導入したところに、雀部は新しさがあるということなのかもしれない。また雀部は大昔のものを含む幾つか文献を援用して議論するものの、フーバーへの依拠が余りに一極集中的で、平島のような自主的史料収集に基づく考察がほとんどなく、歴史研究としては疑問を懐かざるを得ない。
 ③この著作でも問題となるのが、雀部がヴェーバーの状況認識に一方的に依拠しつつ、いつもの「戦後民主主義」への批判、ナショナリズム・プロパガンダ、モムゼンやブラッハーらの非難などを繰り返している点である。しかもその内容は、雀部の他の著作と大幅に重複している。
 ④私は最近、政治思想的な観点でヴェーバーとヒトラーとの比較をしようと試みつつある。ドイツ政治史の過程においてヴェーバーがヒトラー、あるいはナチズム体制の成立に貢献したとすることは、私にはいまのところ全く不可能であるように思われるが、ヒトラーないしナチズムの政治思想にはやや先輩の同時代人ヴェーバーのそれと重なる部分が少なからずあり、相互の共通点と相違点とを丹念に括り出したいのである。ただそうした作業は、私にとってはヴェーバーを糾弾する作業でも擁護する作業でもない。
 (五)今野の言う「知性主義の逆説」とは曖昧で、ヴェーバーは知性主義の「限界」を認識していたし、カントの物自体と現象との区別を理解していれば直ちに理解可能なコンセプトであるという批判‥これも雀部の持論からの敷衍だが(『知と意味の位相』第一章・第二章)、私の議論とは次元がずれている。私が「知性主義の逆説」(あるいは「マックス・ヴェーバーの呪縛」)と呼んでいるのは、社会を脱魔術化し、旧来の陋習から人間を解放することを目指す知性主義が、やがて知性主義を新たな基準とする支配・権力関係を構築してしまうという人間関係上の現象のことであり、きわめて現実政治的、日常生活的な問題であって、哲学的・認識論的次元の問題ではない。なおヴェーバーが『職業としての学問』のなかで知性主義の「限界」を論じていたというのは興味深いが、傍観者としてはそのような達観したことを言いながら、現実政治と関わる際にはそれを生かすことなく、知的権威主義者として振舞うという人間ヴェーバーの姿に、雀部が興味を惹かれることはないのだろうか。ナショナリズムという現象に社会科学者として醒めた視線を送りながら、政治においては脇目も振らずナショナリズムに邁進するヴェーバー、自由な女性を応援する素振を見せながら、傍らで女性解放論者を冷笑するヴェーバー、君主制を厳しく批判しながら、ドイツにおけるその効能を説きもするヴェーバー、黒人個々人をよく観察する繊細さを持ちながら、黒人を「野蛮人」や「半猿」のように扱って恥じないヴェーバー――こうした生身の人間ヴェーバーの両義性に興味がないものには、確かに本書はつまらない作品に思えるだろう。                   (了)
(愛知県立大学外国語学部ドイツ学科准教授・国際政治史)







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