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評者◆今野元
歴史的相対化の視点が不十分
No.2877 ・ 2008年07月12日




 第三部(二八六八号)から第六部(二八七一号)までは、本書の具体的叙述が批判されているが、そこでは興味深いことに、第一次世界戦争以前の部分がすっかり度外視されている。この対象限定は、雀部の問題関心と無縁ではない。というのもヴェーバーの前半生は、彼に好意的な研究者すらその振舞に当惑し、雀部も(ロシヤ論などは別として)深入りを避けてきた問題が多く、逆にナショナリズム研究である本書が力点を置いている領域だからである。また第一次世界戦争後の時期に関しても、雀部は私が中核に据えている彼のナショナリズムには言及せず、付随する問題であるフェミニズムや反ユダヤ主義の話題にも手をつけない。ただ雀部が自分の得意分野に特化して議論したいというのであれば、それはそれで別に構わない。
 第三部(二八六八号)・第四部(二八六九号)では、主として帝制期の国制改革が扱われている。
 (一)雀部『ウェーバーと政治の世界』第四章は「モムゼンの西欧主義的バイアスおよび道徳主義的裁断からフライな総体的分析として、すくなくとも本邦では比較的早い時期に属する論稿」なのに、今野は「対質」していないという批判‥雀部の当該論稿は、戦争のナショナリスト・ヴェーバーの数々の物言いには極力触れず、熱狂した周囲に対する彼の孤高を一方的に強調する傾向にあり、西欧主義的ではなくとも「道徳主義的裁断からフライ」などとは毛頭言えないと思われる。「政治嫌い」でないところは評価できるが、史料的な新味がまるでなく、公刊史料、研究文献への取り組みも皮相的である。叙述では、ヴェーバーの自己認識、状況認識がほぼ鵜呑みにされており、歴史的相対化の視点が不十分という他はない。モムゼンを平板なヴェーバー批判者のように紹介し、自分の価値観の吐露に熱を入れ、モムゼンを強く批判するが(折原や羽入辰郎、あるいは私のように)生前の論敵とドイツで直接対決しようとした形跡もない。一九八四年刊の『ヴェーバー全集』第一部第一五巻(ガンゴルフ・ヒュービンガー実質編集)の成果なども踏まえると、私には雀部の当該研究が、当時の政治史・政治思想研究の世界水準に照らして画期的だったとは思えなかった。ただ私は、全般的な問題は別として、個別の指摘に関しては雀部の研究を肯定的に評価し、自著で引用したこともある(前書243頁)。
 (二)①ヴェーバーが一転選挙権平等化を支持するようになった理由として、今野は前線兵士への共感やイギリスの選挙法改革を挙げているが、もっと広い視野で見ることが必要で、寧ろ総力戦体制下での「運命の平等」が核心的だという批判‥この指摘は参考になるし、広い視野で見るべきとの方針にも同意するが、雀部のいう「運命の平等」論は私の指摘と内容的に矛盾しないと思われる。ここでの私の関心事は方針転換の直接の契機で、雀部が挙げているのは転換後の論拠ということではなさそうである。特に「運命の平等」という部分は、私が指摘した前線兵士への共感の論理的帰結でもあるように思われる。いずれにしろこの問題で、「あれかこれか」の議論は不要であろう。
 ②「議院内閣制」の要件で「帝国宰相が帝国議会に責任を負う」という要素を重視し、ヴェーバーがそこに達していないこと、帝国宰相の帝国議会からの選出を指導者選抜の手段とし自己目的とはしなかったと批判がましく評したのは、「モムゼン的な『西欧主義的』・アングロサクソン的バイアス」であって、議会からの行政指導者の選抜を重視したヴェーバーのドイツ版「議院内閣制」構想を十分に理解していないという批判‥私がここで言う「議院内閣制」とは、ヴェーバーの概念ではなく、我々が今日用いる政治学・公法学の概念としてのそれである。つまり今日で言う「議院内閣制」の枠内にヴェーバーの国制改革構想が入るかどうかという診断をしているわけだが、それがいけないだろうか。そもそも「議院内閣制」とは、まずはイギリスの政府・議会関係を念頭に置いて構想された概念なのだから、イギリス・モデルが重視されるのは当たり前のことである。今日「議院内閣制」といった場合、「議会からの行政指導者の選抜」では不十分なことはいうまでもない。確かにアングロ=サクソン・モデルを当然の理想と仰ぎ、これを鵜呑みにしなかったヴェーバーの「不明」を糾弾するというような西欧主義的断罪は興醒めで、私もそれは目指していない。しかしだからといって、殊更にアングロ=サクソン・モデルを敵視するのも考えものだろう。なお雀部はこの箇所で、議会化が進むことは当然よいことという前提で、ドイツの所与の条件のなかでそれを実現しようと努力したヴェーバーを擁護しているのだが、本書はそういう(西欧主義的?)価値判断を前提としているわけではない。帝国宰相の帝国議会からの選出を指導者選抜の手段とし自己目的とはしなかったというのも、単に現象を指摘したのみである。
 ③本書はヴェーバーの君主制批判には多くのページを割いているが、雀部の詳述した君主制効能論・貴族制評価には「踏み込んで考察していない」という批判‥これは雀部の「戦後民主主義」批判に由来する不満である。雀部は君主制や貴族制を再評価することで、共和制を理想視してきた「戦後民主主義」に一矢報いようとし、ヴェーバーを持論の「石切場」にしようとしてきた。従って雀部は、本書が詳述したようなヴェーバーの君主制や君主への手厳しい言辞には余り触れず、ヴェーバーを圧倒的に君主制論者として描写する(『ウェーバーと政治の世界』43―44・91―124頁)。これに対して本書は、実際には雀部の指摘するようなヴェーバーの君主制・貴族制評価にも触れているし、それらの批判にも十分に紙面を割いて、バランスのとれた記述を目指している(本書284―291頁)。なお私は貴族については第一次世界戦争以前の部分でもしばしば言及しているので、それらの記述からもヴェーバーの貴族制への両義的態度は読み取れると思う(本書73―78頁)。ちなみにヴェーバーの「貴族」論で重要なのは、それが君主制国家における世襲身分としての貴族という常識的なそれと完全には一致していないということである。ヴェーバーにとって真の「貴族」とは、(とりわけ精神的に)切磋琢磨を怠らない排他的エリート集団のことであって、従って「アメリカの貴族」というような言い方も論理的に可能なのである(本書180頁)。
 ④今野はヴェーバーが擁護した君主制を「立憲君主制」と呼んでいるが、ヴェーバーは「立憲制的君主制」(konstitutionelle Monarchie)から脱却し「議会制的君主制」(parlamentarische Monarchie)に移行することを目指したのだという批判‥私が該当箇所で「立憲君主制」と記したとき念頭に置いていたのは、雀部が挙げる『経済と社会』の「立憲制的君主制」ではなく、政治評論などで用いられている「立憲君主制」(Konstitutionalismus)であった。ヴェーバーが少年期作文で「立憲君主制的憲法」(constitutionelle Verfassung)を称揚し、ロシヤ第一革命の形骸化を「表見的立憲君主制」(Scheinkonstitutionalismus)と嘆いたことは、本書でも見たとおりである(本書37・197頁)。ただ「立憲制的君主制」あるいは「立憲君主制」という概念の用語法が、ヴェーバーにおいて全体としてどうなっているのかは、確かに興味深い課題であり、私自身も十分に把握していないので、これを機にいずれ体系的に考察したいと思っている。
―つづく
(愛知県立大学外国語学部ドイツ学科准教授・国際政治史)







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