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評者◆杉本真維子
靴底の街
No.2875 ・ 2008年06月28日




 父がまだ二十代のころの話だ。長野から上京していった友人に「東京はどうだ?」と聞いたところ、その友人は「靴底が減って困る」と答えたという。私はこれを聞いたとき、なんだかおもしろいな、と思った。靴底が減って困る、というのは、靴底の修理が面倒だ、とか、修理代が大変だ、とか、そのまま受けとれば生活の煩わしさを伝える程度の意味だが、それだけではない。むしろ、都会は田舎とちがってよく歩くから疲れる、という素直な感想が漏れている。言葉が言葉以上のものを語っているという感触に、私はひきつけられたのだ。
 田舎では主な移動手段が車だから、都会ほどは歩かない。だから上京したてというものは、精神的にだけでなく、体力的にもたいへん疲れるのである。私は自分のそんな頃と重ねあわせ、友人に様子を聞かれて、こんなにも短く、奥行きのある言葉で見事に近況を表わした彼に、感心してしまう。「クツゾコガヘッテコマル」――、口に出せば、慣れない都会を、冷や汗をたらしながら歩きまわる姿が目に浮かぶほどだ。詩の一行を読むような、心地よいリズムさえあって、こころを離さない。
 そしていま、私もまた、靴底が減って困っている。上京して何年も経っているので、彼とはちがう意味、まさに生活の煩わしさの話である。以前はピンヒールをあまり履かなかったので、こんな世界があるとは知らなかった。つまり、それは名のとおり先がピンのように細いので、丸一日歩いたりすれば、たいていは少し減る。複数を履きまわしてもやはり減る。減れば、靴自体は傷んでいるわけではないので、修理に出さなきゃなあ、と思うことになる。修理に出すには、当然、営業時間を見計らって行かなければならない。簡単なことのようだが、不規則な生活をしていると、なかなかそのタイミングが難しく、やっと直したと思えばまた減って、こんなことがいつまで続くのかと、些細なことだが、この抜け出せない連環に恐怖を感じている。大げさでなく、考えすぎると気が狂いそうになるので、ぎりぎりのところで何とか気を逸らしているのだ。
 けれども、もっと私を不安にさせるのは、こういう話題を誰ひとり口にしないことである。こんなに回数の多いことなのに、口にのぼらないのはどういうわけか。世の女性は踵が減ったら靴ごと捨ててしまうのかと考えたこともあったが、そんなはずはなく、同性のことなのになぜ見当もつかないのかと、情けなくなり、疑問のまま放置することにした。
 しかし、そんな自分の胸のうちを深く降りていくと、以前は駅ビルの中などにある、誰もが知っているはずのチェーン店に持っていっていたのだが、なんとなく店の明るさに違和感があったことを思い出した。靴の修理というものは、もっとひっそりとした、秘密のような場所にあるものだと、私は思っていないか。そこで、この道一筋何十年という無口な職人に、金槌でガンガン踵の釘を深く打ちこんでもらいたいと。そんな渋さ、もっと言えば「暗さ」をひそかに求めている自分と、踵の修理のことを誰も口にしない現実が、こころの深いところにある闇、けれども大切な秘密のような闇と、どこかで結びついているような気がするのだ。
 「13時半から50分間昼休み」――。不在だと文句を言う客がいるのだろうか。予めそう書いた紙をカウンターに貼り付け、職人が黙って釘を打ちこんでいる。「爪先もそろそろ替えておいたほうがいいですねぇ」、肝心なことだけは喋ってくれる。店の名前は「メリットさん」である。どうも「コメットさん」とかぶり、大場久美子が浮かんでしまうが、どちらもロゴに星がついているところは共通している。さらに隣のパチンコ店の扉が開くたび、じゃらじゃらと玉のぶつかる音が星屑のかたちで流れこんでくる。四畳半ほどの小さなスペースだが、私にとってはメリットがある。赤い丸椅子に座り、履きかえたスリッパを爪先でぶらぶらさせていると、あっという間に美しい靴ができあがる。







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