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評者◆小野沢稔彦
「今、ここ」の情況を描き出す「暗黒映画」──ガイ・リッチー監督『リボルバー』、デヴィッド・クローネンバーグ監督『イースタン・プロミス』
リボルバー
ガイ・リッチー監督
イースタン・プロミス
デヴィッド・クローネンバーグ監督
No.2875 ・ 2008年06月28日




 確固としたアイデンティティに担保された存在など、この現実の中ではありえず〈私〉は常に現実と虚構の、あるいは私と、私とは別な人格に引き裂かれてある。これが、この社会の中にある私という存在の現実だろう。私は他の誰かに、あるいは誰にもなりすませるし、他の誰かもまた、私になりすますことができる。自明のキャラクターなど存在しようもなく、全ての関係性や、この社会そのものすらが、あいまいな虚構性の中に浮遊しているのだ。そのことは何より、この社会を映し出す裏社会にこそ直接反映する。そして、裏社会をあきもせず描き出してきた暗黒映画において、この現実は反映せざるをえない。
 暗黒映画はかつてのように、強固なキャラクターのもと、自明の役割りを型通りに進行させるノスタルジックな作品を製作することはもはや不可能なのだ。ガイ・リッチーの新作『リボルバー』(製作はリュック・ベッソン)は、暗黒映画が自明としてきた一切を溶解し、その先に見えてくる「今、ここ」の情況を描き出す。この時、現実とはなりすましの関係性であり、虚構の時代の社会性なのだ。
 ここでも無差別な殺し合いはあり、騙し合いがあるのだが、それらの一切がこの映画では現実なのか、虚構なのか、あいまいさの中に放り出されてある。真実らしさは事実性を裏切り、建て前としての関係性はパロディと化す。例えば、獄中で主人公に影響を与えたとされる影の人物など、単に記号でしかなく主人公の幻想なのかもしれない。そして、いるか、いないか、判然としない組織の支配者――支配は常に支配される者の集団幻想によって成立する――の記号がコントロールする現実。関係性の全てがあいまいなままに進行する暗黒映画。『リボルバー』は暗黒映画そのものを解体し、そのことによってこの表社会のあいまいさを表象する暗黒映画として作られているのだ。このことはやがて、映画のラストで死刑台のエレベーターに閉じ込められたギャンブラー・ヒットマンたる主人公が、絶体絶命のピンチの中で、私と、私とは別な人物との間を(私の分裂かもしれない)往還しながら――どちらにもなりすましつつ――存在のあいまいさの堂々巡りを行うシーンに決定的に顕れる。この時、ガイ・リッチーは巧妙にダイアローグとモノローグを、ズラし交錯させつつ〈音〉を微妙にズラすことによって、誰がどんなことを語っているかをさえあいまいなものとして演出する。神代辰巳が良くやった、この方法はビデオの同期した映像しか知らぬ者を混乱の中に呼び込むだろう。ここにはテレビという支配メディアが作為する自明性を解体する、映画という運動性の豊かなあり様が示されている。ともあれ、『リボルバー』は旧来の暗黒映画を超えて、この社会の現実を反映する新しい暗黒映画であることは間違いないのだ。
 一方、同じ暗黒映画である『イースタン・プロミス』(デヴィッド・クローネンバーグ監督)は、ロンドンの中枢に存在するロシアマフィアの世界を興味深く描き出す。この映画は『リボルバー』とは対照的に暗黒映画の典型的なパターンにのっとって作られているが、しかし、帝国主義本国の最深部にその帝国の内実とはまったく別に、様々なマイノリティ集団が独自の社会を形成し、それは確実に成長し、やがて帝国主義本国の屋台骨をも内部から揺るがすだろうことを開示する映画なのだ。
 ここでは、キングスイングリッシュが形成する言葉という呪縛が作り出す抑圧社会のまっ只中で、カノンとされる全てが相対化され、例えばブロークン英語とロシア語とが混合し、帝国性を脱構築する。マフィアを支えていると信じられる〈父権性〉や〈家族性〉や〈男性性〉も、建て前とは違い根底から揺さぶられる。更に、世界の現実を反映するように、ロシアマフィアに対し、チェチェンギャングやグルジアファミリーが暗躍し、ロシアマフィアの正統性も常に脅やかされ続ける。そして、帝国を形成する全てが、流動する現実の中で異化される。ともあれ本映画の主人公・ロンドン警察のマフィア対策室員を始め、ここでも一切の関係性があいまいさの中に放り出されており、カノンは存在しようもない。もはや自明の暗黒映画など作られようのない地点にまで、世界の崩壊は進行しているのだ。
 この映画の美しさについて書き加えておこう。M・チミノの『ディア・ハンター』を憶い出させる程に見事なロシアレストランの造形とその移動ショット――この映画は、このロシアレストランの描写を観るだけでも充分興味深い――は、ロシアという社会の底知れぬ奥深さを感じさせる見事なシーンである。
 最後に、この国で作られたなんとも不愉快な映画についても書いておく。若い映画人が作った『バックドロップ・クルディスタン』(野本大監督)である。いくつかの映画祭で受賞したというこのドキュメンタリーは、まず自らの立ち位置を、今日の世界について〈無知〉であることを何度もスーパーすることで――自らの無垢さを言いたいのだろうが――姑息な方法的装いを鎧い、作ることを特権化しようとする。しかし、「クルド・難民問題」を卒業作品のテーマにして以降、数年にわたって人々や問題と関わりながら、無知であることを装う姿勢をなんと言ったら良いのだろうか。自らの位置を特権化するこの傲慢さは、決定的に次の2点に現われる。
 ①確か、イスタンブールのレストランで流暢な日本語を話す(今や東京にもトルコ料理店は多い)店員が「クルド女は皆、売春婦」と言いかけ「これはカットしてくれ」となり、画面はフェードアウトしてしまうシーン。ここには差別に関わる深い闇が横たわっているはずだ(店員個人の問題ではなく)。それを、なぜ手離してしまうのか。
 ②クルド地方の小学校で、生徒に「クルド語」について問い質し、ある女子生徒が「クルド語なんて早く忘れ、正しいトルコ語が話せるようになりたい」と発言すると、わが監督は突然に「なぜクルド文化に……」と言いかけ――彼は総てのクルド人はクルド語に誇りを持っていると信じたかったのだ――画面をフェードアウトしてしまい、自らの発言を消してしまう。少なくとも、このシーンにはクルド問題についての重い問題点が決定的に表われているだろう――様々な局面で様々に屈折しつつ、現実の問題点は不意に露出する。この現実にどう向き合うか、それこそがドキュメントの課題ではないか。無知な自己の恥を曝すぐらいの誠実さを、ドキュメンタリストは持つべきではないか。
 少女の心の内にある、希望と絶望とその奥に蟠る深い闇をこそ視つめることからドキュメントは始まる。自ら無知を装うことで、批判を封じた安全地帯に身を置き〈国境〉を越えたなどと言う姿勢こそ、実に制度的なものであり、不愉快なのである。そして特権意識を平然とふり撒く作品が出現する。〈他者〉と出会うことによって〈自己〉を見つめ直すことのない傲慢な映画が若者の手によって生み出される。この国の映画状況は貧しい。







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