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評者◆今野元
批判は妥当か、何故そうした批判をしたのか──従来の先入観を繰り返しても議論が進展しない
No.2875 ・ 2008年06月28日




 今週号より、雀部幸隆氏の寄稿「今野元著『マックス・ヴェーバー』を読む」に対する、著者の今野元氏の応答を連載します。(編集部)

 拙著『マックス・ヴェーバー』(東京大学出版会、二〇〇七年一二月)(以下「本書」)に対し、雀部幸隆(名古屋大学名誉教授)が先般本紙に批判的書評「今野元著『マックス・ヴェーバー』を読む」を連載した。折角の機会であるから、雀部の問題提起に感謝を込めて、原文の順番通りにその論点を検討してみたいと思う。以下私の論述は、雀部の批判は妥当か、彼は何故そうした批判をしたのかという二点の考察を軸としている。
 第一部(二八六六号)では、次元の異なる論点が列記されている。
 (一)少年期作文にはすでに「西欧派ドイツ・ナショナリスト」ヴェーバーの本質が出揃っており、それが一貫して変わらなかったという説は、彼の「人間的学問的な成長過程を看過する不適切な一般化」であり、神経疾患以前と以後とを同列に扱うのも「不適切な一般化」だという批判‥政治学研究である本書は「政治的伝記」であって、「人間的学問的な成長過程」は関連する範囲でしか扱われない。政治的領域において神経症が決定的転換点でなかったことは、本書あるいは拙著『マックス・ヴェーバーとポーランド問題』(以下「前書」)が繰り返し論証した通りで、それを踏まえずに従来の先入観を繰り返しても議論が進展しない。ちなみに神経症による転換なるものは「人間的学問的」領域でも本当に全面的で確固たるものかどうかは大いに疑問であり、ましてそれを現実政治の領域に投影するなど「不適切な一般化」そのものである。なお雀部は未公刊の少年期作文をまだ見ないうちにその意義を即断しているようだが、これは近々私が刊行するので、読者諸氏には是非ご覧頂きたい。
 (二)①「倫理」論文や「教派」論文を「もっぱら政治的・政治思想史的観点から読むのは、はなはだ一面的」である。それらは英米と対等なドイツ国民国家確立という彼の政治的課題の核心には迫っていても、正統ルター派やカトリックに随従するドイツ国民の大多数をその担い手へと「人間的」に形成し統合する視点は含まれていないから、政治的課題に引き付けて読むのは「それらの論文の真価を正当に評価するゆえんではない」という批判‥そもそも本書は、彼が両論文で「人間的」統合論を唱えたなどとは主張していないのだが、アメリカを引き合いに出したヴェーバーの祖国ドイツへの苛立ちは、明らかにそうした統合論の布石になるものだったとは考えている(本書173―182頁)。両論文が英米との現実政治上の競合を意識しているだけで、もう十二分に「政治的・政治思想史的」考察の一材料になるというのが、私の立場である。ただそれでもう両論文の「論文の真価を正当に評価」したことになるとは、私は元々考えていない。本書はあくまで政治史の観点からの分析なのである(ちなみに反教権主義運動のように、ドイツ史家なら誰でも知っているヴェーバーの政治的背景を度外視することが、「論文の真価」に通じる近道になるのだろうか)。尤も学問的色彩が強い「倫理」論文と、政治煽動的要素が強い「教派」論文との趣の違いには注意が必要だろう。
 ②「倫理」論文はカトリシズムへの嘲笑を学問的言い回しで表現しているというが、一九〇八年・〇九年の「精神物理学」研究では、ヴェーバーは労働者への「宗派」の影響の評価に慎重ではないかという批判‥ご指摘は有難いが、彼がカトリシズムに強い先入観を持ちながら個々のカトリック教徒の評価に慎重であったことは、本書も別な事例ですでに指摘していたはずである(本書139頁)。同類のことを、本書はポーランド人、ロシヤ人、ユダヤ人、社会主義者などについても指摘している(本書136・184・199・214・350頁など)。雀部が本書を、ヴェーバーの偏見を一方的に強調した著作と見たのなら、それは早計だろう。ただ本書が指摘した通り、彼がカトリック教徒にときとして繊細であろうとも、彼が晩年までカトリシズムへの揶揄を繰り返したという事実が打ち消されるわけではない。
 (三)①本書は「膨大な未公刊史料を渉猟」したとはいえ、先行研究を大きく超えるものではなく、「大きくいって、モムゼンの伝記的著作はマリアンネ『伝』の後塵を拝しているし、今野書はさらにモムゼン『伝』の後塵を拝している」という批判‥この「書評」で特徴的なのは、雀部が(弔辞は例外として)一貫して攻撃してきたモムゼンを、ここで俄かに斯界の権威として掲げていることである。ただマリアンネ、モムゼン、今野と単純に水準が落ちてきたかのような学説整理には唖然とする。史料的基盤、問題関心、考察対象、分析結果の相違を真面目に考慮するなら、そこまで単純な表現にはならないだろう。ちなみに雀部が本書に新味を感じないのは、その問題関心がヴェーバーの晩年の国制論に集中しているためだが、これについては後述する。
 ②本書がマリアンネの「聖マックス」化を非難しているのは恩知らずで、そのヴェーバー伝の研究上の功績は大きいという批判‥マリアンネが「聖マックス礼讚」の重要な契機を作ったことは事実で、これはやはり批判されるべきである(但しマリアンネは遺族であるから、感情移入はある程度已むを得ないことで、より大きな問題はそれを敷衍した後世の研究者にあるだろう)。だがそれはマリアンネの著作の研究上の評価とは別箇の問題である。私はマリアンネの著作が後世の研究者に多くの示唆を与えたことを評価する点では、雀部と何ら変わらない。ただそこには事実誤認や文面改竄があるので、歴史家にはこれを個々的に指摘する責務があることは言うまでもない。
         ーつづく
(愛知県立大学外国語学部ドイツ学科准教授・国際政治史)







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