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評者◆丸川哲史
四川大地震の「国難」に直面し政治に参与する13億の民──北京にいて見えてくる現代中国の実相
No.2873 ・ 2008年06月14日




 日々、死者の数が加算されていくリズムに違和感を覚えながら、この違和感は、かつて阪神・淡路大震災の際の感覚を反復するようでいて、しかしこの中国の一大災難の「報道」をじっと見ているしかない。
 一方、日本のマスメディアの反応において、例えば、手抜き工事された校舎の問題や初期動作の遅れなど、さまざまな備えの不備を指摘する報道が為されている。しかしそのような報道の手法にも若干の違和感を覚えるのは、この惨事が持つインパクトは「対策不足」という言葉によっては伝えられないものであるということ、死者のカウントと同じくらい、「対策不足」の「指摘」は時に無意味にも見えてしまうこともある。もちろん、そのような「対策不足」は改善されなければならないし、おそらく改善されるだろうが……。
 それからさらに、いわゆる救済活動にまつわる美談にもやはり違和感を覚える。もちろんこの美談は、中国内部の「報道」において、より強く繰り返されているものである。予想されることとして、そのような「美談」もやがて忘れられるだろう、とは思われる。しかしこのいわゆる「美談」として流されている様々な物語においても、やはり中国の内部においては、忘れられない何かがあるようにも思われる。
 チベットの蜂起から、オリンピック聖火ランナーの騒動、そしてこの大地震という流れの中で、明らかに「中国ナショナリズム」として外側から名指しされる現象について、重大な屈折が起きていることが指摘できる。つまり西側メディアへの批判を梃子としたナショナリズムではなく、自分自身に向かうナショナリズムとなっていることである。その一つの手がかりになるものは、実に中国の政治文化の露呈であった、と私には思える。いろいろ批判も潜在するが、特に被災地における温家宝の被災者に対する演説には、国家の緊急事態を国民のエネルギーに転化させようとする気迫に満ちたものがあった。もちろん、指導者の視察は物理的には救済作業には邪魔なのだが……。もちろん、国内の地震救済特別番組のような(半)宣伝番組は見ない、という中国人もいる。しかしそうは言いながら、今ほとんどの中国人が四川の被害者のことを想像しようとする時間にあることは間違いない。
 そこで一つのある報道で、現代中国を理解することが如何なる意味で成立するのかに思いをめぐらせてしまうシーンがあった。埃まみれのまま助け出されたある男性が、今後の将来についてテレビ記者に聞かれた時に、それはおそらく解放軍への感謝の意味を込めてだと思われるが、息も絶え絶えに「入党したい」と語った場面である。私は即座に西側の人間として「苦笑」してしまった、「ああ、仕込みが入っているのだろう」と。結局、それがやらせなのかどうかは分からない。数多くの被災者を撮った絵の中からそれを選ぶことは、もちろん、共産党や中央政府にとって格好の宣伝ではあるだろう。しかしそれだけとはやはり言えない。私はそれに「苦笑」した自分を省察しながら、中国共産党という歴史的存在について、思いを馳せざるを得なくなった。それは賛美の対象として扱うことも、また嫌悪の対象として扱うことも不可能な現代中国の現実の大きな一部分なのだ。つまり、その「入党したい」というその被災者の言葉に対して、単純に「苦笑」するだけでは流すことができない、より複雑な中国現代史に対する感情、つまり現代中国を作り上げるために血を流し続けた政治の歴史に対する感受性が必要となる、ということである。つまりそれは、政治的なものの次元への参加を通じて、中国が現代中国となったプロセスのことだ。
 言葉にすれば簡単であろう、この「国難」が民族心を奮い立たせている、等。例えば、信じられないほど募金が集まっている事実がある。これは抗日期の募金のあり様に似ているかもしれない。またその募金のやり方において注目を引くのは、各自がどれだけ募金したかが分かるシステムになっているということである。ある意味、いやらしいものであろうが、しかしこの危機において各自どれだけの金額を差し出したのかを「公開」することは、やはり重要な自己・他者確認の一部となっている。考えてみれば、日本のかつての村々の神社仏閣に対する喜捨にしても、実はその額が公開されていたことを思い出す。ではこの十三億の民が、語弊を恐れずに言えば、そのような意味で「村」になっているということなのか。そこでもやはり考えれば、人と人とが知り合っているような規模ではなく、十三億もの人間を「村」にするのには、やはり政治的次元が必須であることが分かる。中国人は政治的な民族だと言われているが、逆に政治的次元なしには現代中国は存在しない、ということなのであり、改めてこの「国難」を通じてそれを垣間見ることができるのである。それは何よりも、中国の近代が、いわゆる教科書で語られる中国革命の時代区分を超えて、中国人自身が己の近代への参与そのものとして成立してきたことを意味するだろう。(在北京、東アジア文化論・台湾文学専攻)







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