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評者◆小野沢稔彦
風景を超えるマルチチュードの出現──ペドロ・コスタ監督『コロッサル・ユース』
コロッサル・ユース
ペドロ・コスタ監督
No.2872 ・ 2008年06月07日




 どこにも属さない人々。どこにも属しえない人々。この世界に属しえない無数の境界線上の私生児たちが、自己の生の再構築を求めて蠢めき始めている。自らの〈言葉〉を持とうとして密やかに鳴動し始めている。その動きと声とは、境界の内に安住する者には視えないかもしれない。しかし、白昼の明るすぎる闇の中に、組織者はしなやかに躍動を開始し、それに応えて境界線上の私生児たちは反逆の言葉と変革の運動と新しい愛の歌を生み出しつつある。21世紀の映画的可能性を切り拓きつつあるポルトガルのペドロ・コスタが新たに私たちの前に開示した『コロッサル・ユース』は、偏在する境界線上の私生児たちの新たなる祝祭への予兆なのである。
 私はこれまでP・コスタの作品については本コラムで採り上げ(連載11・15)、その映画の可能性について記してきた。そしてこの『コロッサル・ユース』もまた、私たちの怠惰な日常を撃ち、世界の変革への歩みを深く告知するものとして、そしてまた制度化された既成の映画の枠を超えた、映画そのものへの根源的な問いを秘めた挑発的な映画としてもあることを、まず謂っておきたい。そして断言しよう――この映画はまったく新しく今、ここに「マルチチュード」の出現を告知するものであること、を。
 『コロッサル・ユース』は前作『ヴァンダの部屋』と同じくリスボンの、それも本当に狭い空間内に映像は限定され、街の情景など一切出現することはない、超風景映画だ。風景論から40年、私たちは風景を超えるマルチチュードの出現に立ち会っている。そこに描かれる世界は、アフリカとリスボンのスラムを貫流しつつ、今、ここに生きる人々の現実の生を視つめ、その生はなぜこのようにあり、どう再構築されねばならないかが、現実の様々な生の照らし合いの中に描かれる。そこでは生は無限に反射し、変容し、流動する現実としてあり、まさに民衆の生の豊かさが物語られる。同時にヨーロッパ近代がその内に生み出した根源的な問いとしてのシュルレアリスムを方法とすることで、制度の内で硬直した左翼的思考=言葉を鍛え直す場として、今、ここ、すなわちスラムの生の現実を視つめるのである。その中からP・コスタは「世界史」そのものを問い直し、新しい世界の構築的運動性の予感を生成する。すなわちマルチチュードによる多様な言葉=詩の生成過程の現在的報告なのであり、境界の内部に幽閉されてある存在の想像力による解放なのだ。境界は世界のどこにでもあり――リスボンのスラムこそが境界である――境界上に生きる者は境界を突破することによってしか、生を構成することができない。『コロッサル・ユース』という映画は、映画そのものが境界線上の私生児たちの生の構築へのアンガジェなのである。
 P・コスタの場所は、例によってリスボンのスラム。しかし、前作とは多少違い、一つは新しい都市管理システムが産み出した新団地であり、同時にしかしなお解体不能なままに放置された旧スラムである。権力がどうもがこうとも制御不能な空間は増殖し続ける。その新旧スラムを結びつけながら時空を漂流し続けるのが、今回の主役・大西洋の孤島カーポ・ヴェルデ出身の老オルガナイザー・ヴェントゥーラであり、彼を中心に新団地のヴァンダ(前作『ヴァンダの部屋』の主人公)たちと、旧スラムに住む多数の黒人たちだ。例によって〈ヤク〉は消滅することはないが、もはや必需品ではない。ヴァンダがこの間もうけた子供は、ヤクの影響による成長障害から小さく、行動反応も鈍い。そしてヴァンダは抵抗の方法としてもはや〈ヤク〉に依拠しない。彼女が〈パパ〉と呼ぶヴェントゥーラの行動性と組織力と何よりも想像力に、彼女の生を結びつけようとする。
 一方、旧スラムでは多くの黒人たちが、自らの〈言葉〉を求めて詩人=組織者としてのヴェントゥーラのもとに集まっている。しかし、彼は特別な人間ではない。ただ人々の多様な願望を変幻に映し出す鏡であり触媒であるのだ。組織者とはこういう謂だ。彼らは何も持たない。何も所有しえない。だから、自らの言葉を持つことによって――今ある言葉こそ、彼らの軛であることに気づき始めた――、呪縛の言葉を解体し、生の構築を行い、自らの生存を作り出そうとする。その中で、言葉は新しい愛の讃歌をも紡ぎ出す。詩と愛と変革と。
 その時、彼らはシュルレアリスムと40年以前のポルトガル革命の記憶の回復とを方法的梃子とする。かつてのポルトガル革命は革新的若手軍人による、黒人など視野に入れない一国主義的なものでしかなかった。しかし、その影響は、本国よりも植民地においてこそ深いものであったのだ。その記憶の中に解放の現実性を視つめる黒人たちは宗主国の一国的視点を超えて、多様な解放の幻像をそこに視ていたのだ。そして、ポストコロニアルの40年間、スラムの中で、黒人たちは封印されている記憶を語りつぎ、同時に発酵し続ける変革の像として共有し育て続けていたのだ。そして、白人の落ちこぼれたるヴァンダたちもまた、新しい言葉に引き寄せられる。
 彼らは、言葉=詩を、運動を、そして行動的組織者を必要とする。そして登場したのが、集団的記憶の継承者にして、語り部として詩を創造する者・ヴェントゥーラである。彼は新旧スラムを自由に行き来し、民衆の記憶を今の言葉に変え、それを生の中に位置づける。そして、耐えがたい今を共に生きる中から、生の変革を生み出そうとする。やがてその運動はスラムに生きるマルチチュードの新しい詩=変革の方法となって、現実的な歩みを構成し始める。
 『コロッサル・ユース』は20世紀の時間を異化し、超えるための映画である。ここには観客を魅きつける――私たちは突き離されたまま、スクリーンを注視するしかない――アクションもなければ、旧来の映画的面白さもない。ただ動かない引きっぱなしの画面が延々と続くのだ。しかし、その一カット一カットの内に歴史を変革する〈言葉〉が壮大な叙事詩となって孕まれている。
 P・コスタの映像と、ともあれ向き合おう。映画を観ることとは、私たちの今を、改めて視つめ直すことなのだから。







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