書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆雀部幸隆
「逆説」や「呪縛」をいう前に、ウェーバーのテキストを的確に「分析」する必要がある
マックス・ヴェーバー――ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯
今野元
No.2871 ・ 2008年05月31日




 (三)さて、今野書第五章でとくに検討されなければならない第三の論点は、ウェーバーの「直接公選大統領」構想の理解にかかわる問題である。
 今野は、ウェーバーがライヒ大統領のあり方にかんし、アメリカ型の国民選出の大統領制をとるか、あるいは、とくに(当時の)フランス型の議会選出の大統領制をとるかの選択を前にして前者を選択したとし、その理由として、第一に、かつての第二帝国のBundesratが結局Reichs‐ratとして「ドイツ将来の国家形態」でウェーバーが構想していたものよりもさらにfoderalischな要素をつよく残す形で「温存」され、それに対抗するunitarischな要素として国民投票的民主的正当性に立脚した官職を国家最高の地位に据える必要のあること、第二に、新生ドイツ共和国でも実力ナンバーワンのプロイセン邦(↓州)の首長に十分太刀打ちできその上位に立ちうるライヒ首長を置くためには、その首長がやはり直接国民投票による民主的正当性に立脚する必要のあること、第三に、新生ドイツにおいてライヒ議会が比例代表選挙制を導入し、ウェーバーの視点からすれば議会本来の機能を十分果たせそうにないがゆえに、その補完機関として直接国民の意思に立脚するライヒ首長が必要であると考えられたこと、第四に、新生ドイツのライヒ「国会の中心に位置する多数派・独立社会民主党に、ヴェーバーは人間の精神的自律を押し潰す『官僚制』の影をみていた」こと、の諸点を挙げている(今野書三三七頁以下)。
 これらの理由づけそのものに特別問題があるわけではない。しかし、ここでも今野はウェーバーのワイマール共和国国制構想への「アメリカ合衆国の影響」を過剰に見すぎているきらいのあることが指摘されねばならない。氏は、今野書三三一頁で、「ヴェーバーの戦後国制構想は、アメリカ合衆国の影響がとりわけ顕著なものになっている。ヴェーバーにとってイギリス国制への親近感は依然として捨てがたいものだったが、君主制再興が不可能不都合であると判断したときに、割り切ってアメリカ国制に目標を換えたのである。」と、それこそ割り切った整理をしているが――そこから、ウェーバーの新Bundesrat構想にたいするさきに見た今野の一面的な解釈が生まれる――、そう簡単に整理することはできない。やはりウェーバーにとって、アメリカはアメリカであり、ドイツはドイツである。アメリカの国制の基本は大統領制だが、新生ワイマール共和国の国制は、ウェーバーの定義によれば、「国民投票的大統領制と代表制的議会制とが並存する国民投票的=代表制的統治」である(WuG,5.Aufl.,S.173.世良訳『支配の諸類型』一九六頁。強調は原文)。
 この定義からも窺えるように、ウェーバーの戦前戦後のドイツ政治改革論を見る場合に、かれの統治形態論を視野に入れることがぜひとも必要である。だが、今野はその必要性にたいして然るべき注意を払っていない。いまここで問題となる点をいえば、ワイマール国制はウェーバー的には「国民投票的大統領制と代表制的議会制とが並存する国民投票的=代表制的統治」と定義されるものであるから、大統領制とライヒ議会制、Reichsrat制、ライヒとかつての諸邦たる諸州、ライヒと最大最強の州たるプロイセン、これらの相互関係をウェーバーがどのように考えて新生ドイツの国づくりに臨もうとしたのかを、詳細かつ明晰に分析せねばならない。その要求基準からすると、今野の論述は単純で一面的だといわざるをえない。
 (四)ところで氏は、この箇所の最後の所で、ウェーバーが「直接公選大統領に大きく期待したのは事実だが、それは彼がドイツ国会無用論に傾斜したということではない。」と述べている(今野書三三九頁)。これは、ウェーバーの「[ワイマール]憲法提案は、純粋な議会主義からの離反を表明するものである」、「極端な知的合理主義にもとづいて、ウェーバーは人民の自由な自己組織という民主主義思想から訣別した」とするモムゼンの見解(Mom‐msen,Max Weber und die deutsche Politik1890‐1920,2.Aufl.,Tubingen,1974,S.363,420.未來社版訳Ⅱ六一八頁、七○三頁)を意識して、それを修正しようとしたものと思われる。それならば、氏は、さらに立ち入って、ウェーバーが「カエサル主義的人民投票的民主主義思想とライヒ大統領のカリスマ的指導者としての地位の確立をめざす憲法構想」によってヒトラーの権力掌握に意図せずして道を開いたとする(ebd.,S.205,436f.同上訳Ⅰ三三六頁、訳Ⅱ七二五頁以下。なお、Mommsen,Max Weber and the German Politics1890‐1920,Paperback edition1990,p.〓をも参照)モムゼンのウェーバー研究の肝心かなめの論点をどう評価し、そのモムゼンの主張にたいする雀部の批判をどう考えるのか、と問われるだろう。それとも、氏は日本の先行研究などたんなるウェーバー「学習」にすぎないから、そんなことなど問題にしなくてもいいと考えているのであろうか。
 以上、総じていえば、今野書は、その自負の大きさにもかかわらず、得意なはずの史実の発掘という点でも先行のマリアンネ『伝』およびモムゼン『伝』を大きく超えるものとはいえず、また、その史実、つまりウェーバーの政治的発言・政治思想の「分析」・解釈という点では、結局皮相で突っ込み不足が目立ち、しばしば一面的な解釈に陥っている。
 ウェーバーの「政治構想」が全体として「知性主義の逆説」を示すという今野書の「結論」も、はなはだ不明瞭である。知性主義の「限界」ということなら、ウェーバーのつとに指摘したところであり、カントの物自体と現象との峻別を承知している者なら直ちに理解可能なコンセプトであるが、しかし知性主義の「逆説」などということは、およそ概念的明晰性を欠き、論評の域外にある。
 なお氏は、その後、この意義不明瞭な「知性主義の逆説」に加えて、「マックス・ヴェーバーの呪縛」を云々しているが(今野元「マックス・ヴェーバーの呪縛――現代ヨーロッパに見る『知性主義の逆説』」『UP』二〇〇八年二月号四四頁以下。つい数年前に「マックス・ヴェーバーの犯罪」などと空騒ぎした向きがあったが、今度は「マックス・ヴェーバーの呪縛」だそうである)、そもそも氏は「逆説」や「呪縛」をいう前に、ウェーバーのテキストを注意ぶかく読み解き、的確に「分析」する必要があろう。しかし、そのためには、さらに、氏がたんなる「学習」と見なしたわが国のウェーバー先行研究との対質を避けるわけにはいくまい。
(了)







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約