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評者◆小野沢稔彦
「靖国」というトポスの機能――奇妙な空虚空間 リ・イン監督『靖国 YASUKUNI』
靖国 YASUKUNI
リ・イン
No.2866 ・ 2008年04月19日




 靖国神社の〈神体〉が「日本刀」であることを初めて知った。それにしてもなんともあからさますぎはしないか。「刀」とは究極のところ、人を殺すための武器以外の何ものでもない(それを日本人の精神性や美意識の表出などと言いつのってはいけない)。この事実こそ、靖国が持つ〈機能〉――それはシンボルでなく機能だ――を端的に表徴するものである。つまり、靖国神社とは、天皇に順ろわぬ者を殺すことを担保する機能性を持つことによって、その存在理由とするのだ。映画『靖国 YASUKUNI』(リ・イン監督)は武器を神体とする「靖国」の内実を暴き出す。
 靖国神社は、その創建から〈天皇制〉を前提とし〈国体〉の護持のためにあるのだが、そのあり様は奇妙な空虚空間=ブラックボックスとしてあり、それはただ\"ある\"というだけで幻想の権力性を持つのである。そして天皇制がそうであるように、この国の民衆の全てを呪縛し飲み込むトポスとなっている。しかし、この『靖国』が明確に開示したことは、神体そのものが人殺しの武器であり、その機能性に媒介されることで日本近代の暗黒の歴史を保証し、殺人の記憶の共同性を生成し、この今に生きているそのことを多面的に切開しているのである。
 しかしそれにしても、この『靖国』が映し出す登場人物のパフォーマンスは何とみすぼらしく、バカバカしく空しいのか。それはこの国の――この映画に政治的イデオロギーを感じると告発したバカ女国会議員と同じく――何とも空虚なあり様を反映しているのだ。つまり、靖国に表出しているのは、私たちの現在そのものであり、監督リ・インは執拗にそのことにこだわり続ける(実に10年におよんで)。この空しくみすぼらしい靖国でのパフォーマンス=「日本」という国を幻想する身体的所作はまったく現実性を欠いた、ほとんど漫画でしかないものであるが、しかし、この連鎖の上に、この国の現在があり、この現在は人々の空虚の現実性そのものであり、その心性に靖国という場は「型」を与え、その場での集団的演戯によって、人々の負の想像力を担保する。靖国という劇場に来ると私たちの日常において封印されてある、存在の空虚を共同的な身体性に組み変えることができる。そして、虚構でしかない幻想の「日本」にその身体を同化することができる。靖国というトポスは、こうして人々に支えられ、人々に存在理由を与える。
 どんな国家も共同幻想を担保する場を必要とする。死を強制し、死を産み出し続ける国家は、死を担保するために追悼の場を用意する。そして、追悼とは加害の忘却を促す。そして、この国では天皇制と一体となった靖国でしか、そのことは可能ではない。男たちのはしゃぎようが、私たちの危機の進行によって、より速度化される時、死を悼む儀式を通って、そのパフォーマンスは再び壮大な喧騒へと向かうだろう。それは、靖国という神体の現実化に行きつく。映画『靖国』は、このように死者への追悼の場であることを通して、新しい死を作り出すトポスとしてある靖国の現実を見つめ続ける。『靖国』は歴史の「記憶」を追悼によって「忘却」し、新しい「祝祭」の時空における空疎なパフォーマンスを見つめることで「刀」を神体とする「靖国」を凝視する。空疎な喧騒は、集団的に感応する場を与えられることによって、えたいのしれぬ共同の「型」を持ち、幻想の殺人を現実のものとするべく外へ向って爆発する。この時、記憶の底に埋め込まれた〈刀〉の愉しみ――それが「国民」の総意として集約的に表徴されたのが「百人斬り」であろう――は、人々の心性の中に復活するだろう。身体に記憶された殺すことの快楽は、異様な祝祭の共同性によって甦る。8月15日の靖国の祝祭性は、靖国の〈神体〉性を人々の身体性に憑依する大衆運動なのだ。こうして靖国は、死の記憶を快楽の記憶へと変換する。そして、忘却を祝祭に包み込むことで侵略を無化し、今を無限に肯定し担保する。これは天皇制の空気の如き抑圧が強まれば強まるだけ、天皇との一体化を幻視する私たちの心性と通底する。空虚としての天皇制と靖国と刀の愉しみとは、まさに三位一体のものである。日本という「国」は、殺人を寿ぐ場としての靖国を必要としている。
 それにしても異様な光景ばかりである。例えば、数分におよぶ長いワンカットが視つめる、普通のオジサンの「中国人は帰れ」という、ひ弱な反靖国運動の若者に対する空疎な叫びの執拗さの奥底には、えたいのしれぬ闇が蟠っている(この心性は排外主義などという観念だけでは説明しきれない)。この闇は深く切開されねばならない。靖国というトポスに吹き上げる死者を生み出す快楽の身体的記憶は継承され、侵略の忘却の中から、一気に具体的な死の運動となる。このような「靖国」の空無なグロテスクを、まったく静かに開示して見せる映画『靖国』は、この国の歴史の暗部を浮び上らせるものとして、私たちの前にある。
 《追記》
 こう書いたところで『靖国』の上映禁止が決まった。以下、このことに対する短いコメント。
 (1)監督協会声明に端的にみられる「表現の自由の侵害」云々などという判ったようでいて、単なるアリバイ証明的言辞では、どんな力にもなりえない。「週刊新潮」に具体化したように、表現の自由によって書かれた記事――それは意図的に中止を煽るものだが――によって、政治性として引き起こされた今回の情況に対しては、この作為された政治性を打ち破る現実的運動を作り出すことによってしか対抗できない。言論の自由などという近代民主主義を前提とする言説によって、今回のような政治性を批判などできない。
 (2)映演総連などのいう「上映の場」の保証の空しさは、それこそ笑止以外ではない。常に場所の封鎖がまず行なわれる。そして、興行者に良心など期待したところで、映画の内実など観ることもなく、風潮によってしか興行を考えない者に、所詮ないものねだりでしかない。
 (3)かつての清順共闘を憶い出そう。あの運動は、単に清順映画を上映せよ、というだけの運動ではなかった。
 このような情況に至ったのは、映画ではなく、映画をめぐる政治によって意図的に作り出されたものであり、実に低レベルな情動の政治性を切開することによってしか、今回の情況に対抗することはできない。







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