|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
評者◆秋竜山
連載第957回 発見の一冊、の巻
No.2854 ・ 2008年01月19日
「へー!! そーだったのか」と思いながら読んだ。大塚初重・五木寛之『弱き者の生き方──日本人再生の希望を掘る』(毎日新聞社、本体一四〇〇円)日本考古学界の第一人者である大塚初重さんと、有名な作家五木寛之さんの対話の一冊である。
〈私はこれまで、ずいぶん多くの人びとと対話を重ねてきた。しかし、今回の大塚初重先生との対話ほど、よく笑い、かつ深く感動した機会はなかったように思う。それは圧倒的な体験だった。(略)ただ一度の面授が、万巻の書を熟読することと同じほどの価値をもちうる。〉(まえがきにかえて──五木寛之) 私が読みながら、「へー!!そーだったのか」と思ったのは、古墳研究の第一人者の大塚初重先生が登呂遺跡の発掘にかかわりあっていたということだ。 〈五木 登呂遺跡の発掘に参加されたのも復員直後ですよね。 大塚 そうです。私が考古学の世界にのめり込んだのは、昭和二十二年からはじまる登呂遺跡の発掘にかかわったからですね。復員後、私は昼間は商工省に勤めて、夜は夜学の学生として学んでいました。ある日、明大の教授でいらっしゃった後藤守一先生が、講義のときにこう言われたんですね。「諸君、じつは来年の七月から静岡県の登呂遺跡の発掘がある。希望者がいれば連れていく。ただし五日や一週間の発掘では困るよ。勉強に行くんだから、一カ月か六十日のロングランでなければだめだ」私はもう、すぐ家に帰って後藤先生に、「連れていってください。どんなことでもします」と手紙を書いた。〉(本書より) 登呂遺跡といえば、私は小学校の六年生の修学旅行で見学している。当時の登呂遺跡の風景は記憶の中でウッスラであるが、昭和二十九年か三〇年頃であったから、発掘が昭和二十二年となれば、もしかすると、まだ掘っていたかもしれない。小学六年生の登呂遺跡といえば、わけがわからずの見学であった。二千年前の日本の初期の農耕社会の実態といわれても、わかるわけがなかった。それでも、見学したということは今でも忘れられない修学旅行の想い出となっている。〈人間性と謙虚さ──前田青邨先生の教え〉の項目の中で感動したのが、 〈「平櫛君はあと三十年彫れるだけの木材を用意していますが、私も、二、三十年描けるだけの紙の貯えはあります」とね、その当時九十歳近かった前田青邨先生がおっしゃる。天下の前田青邨画伯にしてこれか、ああすごいなあと思って、身体中の血が逆流する思いでした。私、正直言って一週間ぐらい頭のなかがおかしくなったですよ。ほんとうに人間性と謙虚さについて考えさせられ、教えられました。〉(本書より) このような話に対し、「アア俺は駄目だ、とてもじゃないが、とにかく九十歳近かったんだろ。……では、駄目であって、ヨシ!! 俺もその心いきでやろう!!」でなくちゃあ。ところで、前田青邨画伯の二、三十年描けるだけの紙の貯えってどれくらいのものであったか知ってみたいものだ。もちろん量より質だろうけど、ね。白紙の質とは紙質のことかしら? |
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
取扱い書店| 企業概要| プライバシーポリシー| 利用規約 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||