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評者◆小野沢稔彦
戦争のトラウマを見つめなおす――ヤスミラ・ジュバニッチ監督『サラエボの花』
No.2850 ・ 2007年12月15日




■顔が並んでいる。人種、民族、宗教の壁を超えて顔が並んでいる。その身分を超えた実に変化にとんだ顔をカメラは――その後、何度かカメラは顔を捉え、その度に顔は少しずつ変容をとげるのだが――ゆっくりと移動する。本年、私が観た映画のうちで最も優れた作品の一本と思われる『サラエボの花』(J・ジュバニッチ監督)は、この顔の移動ショットの内に、作品の全てを集約的に表現する。
 この何度かの移動ショットは、ヨーロッパのあらゆる面での周縁の地・旧ユーゴスラヴィアがその内に抱えこんだ矛盾が――戦争が起る以前は、誰でもがそこは人類が望む人種の融合・共存が現実的に進む理想の地と思っていた――噴出するボスニア・ヘルツェゴヴィナの中心、サラエボの現実そのもの(過去の幻想を含め)を表象する顔、顔……なのである。かつて希望を体現する町であったサラエボは、今、絶望を現わす町である。
 私は、このような顔のアップの移動ショットによって現実を映し出した映画として、ジャ・ジャンクーの『長江哀歌』を思い出す。そこでの移動も、周縁に位置する有象無象たちの、存在それ自体に孕まれた流動性を表現していて見事であったが、この『サラエボの花』も方法化された顔の移動ショットによってサラエボの全てを表象する。
 しかし、中国映画とは決定的に違って『サラエボの花』に映し出される顔の中には〈男〉がいないのだ。ユーゴスラヴィア、なかんずくサラエボでの戦争は、戦う男たちによる女たちへのレイプ、陵辱など、性暴力が猖獗をきわめた戦争であった。勿論、いつの時代においても戦争には、常に男たちによる女たちへの性暴力が横行してきた。しかし、そのことはこれまで特別に問題とされず、男性の潜在的資質の戦時下という特殊な条件下での噴出として放置されてきた――この国の慰安婦問題をめぐる実りない論争も、そのことを表わしている。そして、サラエボでも戦争下での性暴力問題は様々な理由から避けて通るべき問題とされつつある。しかし、この映画はその問題を正面から問い直す。同時に歴史的、社会的に生み出される男性たちの女性たちへの性暴力が、常に戦時下だけに突出するのではないことを――なぜなら、戦争の終わったサラエボでは、今も男たちの女たちを見る目は変わっていない――決定的に問いかける。
 サラエボの街は平和の装いをみせているのに――各所に傷跡は生々しいが――女たちの精神と肉体とに刻印された性暴力のトラウマは、表面的復興とは逆に深くなるばかりだ。戦争中に何度もレイプされた、この映画のヒロインにとっても、それは日常生活のあらゆるところで噴出する。レイプの記憶。まして、彼女にとって現実として一緒にくらし、今や唯一の身内である実の娘は、そのレイプの結果生れた誰の子とも知れぬわが娘なのである。この娘は何者なのか。ヒロインはレイプの記憶が染み込んだ町・サラエボの中で、処理しようのない心の無間地獄の中にのたうちながら、一人現実を耐えるしかない。そして確かにヒロインは娘を愛している。
 娘もまた苦悩する。彼女は、自らのアイデンティティを、父親は〈殉教者〉という幻想の中に求めようとする。それは国家の幻想性の中に自分を同化させることによって、この幻想の共同体の中で自分の居場所を確実なものとしたいという切ない表われだ。どこにもいない父のイメージを国家の英雄であるという幻想の中に幻視し、その幻像と自身を一体化しようとする。そうすることでしか、母との関係も判然としない。娘も無間地獄をさまよっている。彼女にとっては愛の確立さえもが、心の闇を巡る地獄遍歴を経て成り立つ。その愛は最初、シャヒード=殉教者という観念を、男友達と共有することによって生れ、やがて自身がレイプの結果生れたという現実を受け入れることを契機に、国家という幻想の中にあるのではない新しい真実の愛にたどりつく。そのためには、母と娘とはピストルという殺人の道具を向け合うことさえ行い、その直接性を通して絶対的断絶関係を強行突破するのだ。そこに娘の愛は確立し、同時に母と娘との新しい関係は再生する。そして、娘は真の愛へと向い、母は戦争のトラウマをまっすぐに見つめ始める。
 サラエボでは国家や神話と化した古い家族像とはまったく別な、新しい関係性が生れ始めている。しかし、戦争の犠牲者を今なお顕彰することで、国家はその幻想性をふりまき、男たちはそこにしがみつく。そして、旧来の男権主義的な家族観に固執する。そして、私たちも。そうした私たちの前に『サラエボの花』は、まったく新しい人間像と関係性を提出した。私は、そこに深い感動を憶える。しかし、ここに出てくる男たちは――ボスニア側兵士もまた〈敵〉にレイプをくり返した――戦争が終わった今もなお〈性〉を売りものにし、その周辺にたかって生きている。制度そのものの体現者たる男の教師もまた、制度の内でしか人間を見ることをしない。反省することのない男のインチキさ。しかしまた、戦争時にはそうした男たちに、多くの女たちが声援を送ったことも事実だろう。今、改めて性暴力を生む男たちの差別性を徹底的に見つめ、弾劾する視点を確立すると共に、男と女との共犯関係によって強行される、戦争体制を解体する試行を行いたい。
『サラエボの花』は、岩波ホールほかにて公開中。







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