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評者◆野添憲治
(56) 三井鉱山芦別鉱業所ほか──北海道芦別市
No.2848 ・ 2007年12月01日




 北海道芦別市の石炭は一八九七年ごろに発見され、地元の人たちが採掘すると、空知川を幌舟で滝川に運んで売ったが、あまり儲けにはならなかった。その後に札幌鉱山監督署が空知郡全域の炭田を調査して芦別炭田の全貌を明らかにしてから、鉱業資本が関心を寄せた。
 三井鉱山がこの芦別地区を含む一帯に試掘鉱区を設定したのは一九一一年である。そして、第一次大戦の好況期に開発をはじめたが、戦後の不況で中断し、日中戦争の開始で石炭需要が増加したので再開した。一九三八年に芦別鉱業所を設置し、第一坑を開発して出炭をはじめ、一九四四年から第二坑の開発に着手した。しかし、戦況は日ごとに悪化していくなかで石炭増産が要求されたが、労働力不足は深刻で、中国人連行者を使用することになった。
 三井鉱山芦別鉱業所では、三次にわたって中国人を連行している。第一次が一九四四年八月、第二次と第三次が一九四五年三月で、塘沽から乗船し、下関に上陸している。河北労工協会との契約は第一次二〇〇人、第二次二〇〇人、第三次三〇〇人だが、乗船した人数は一八四人、一九七人、三〇一人と計六八二人で、一八人が不足している。石門収容所から塘沽乗船までに死亡か逃走したと考えられるが、名前もわかっていない。
 また、塘沽から下関までの船中死亡者が五一人、下関から芦別事業所に到着するまでの死亡者二三人と、厖大な死者を出している。生存帰国者の郭家徳の口述「九死一生」によると、「下関に到着すると、一人一人検診をして伝染性の病人は、全部撰り出して白い札をつけ、病気のないものには赤い札をつけた。検査が終ると、白い札をつけたものは、小汽船にのせていってしまった。これらの人がその後どうなったかは分らない」という。白い札をつけられた中国人は治療にまわされたのか、また本国に送還されたのかわからない。むしろ、この人たちは「船中死亡」か「途中死亡」にされた可能性が高い。
 芦別鉱業所に到着した中国人は、西芦別駅前で受け入れ式のあと、二坑(頼城町)のバラックの建物に収容された。翌日から仕事だった。毎朝坑務所前に整列して、軍隊式の教練を受けた。二坑の開発の真っ最中だったので、坑木の運搬をした。坑口の下のズリ揚げ場まで運び、そこからトロリーに積み込んで一〇〇メートルくらい上に揚げたが、トロリーに巻き込まれて死ぬ人もいた。坑木運搬は真冬もおこなわれたが、その他に二坑露頭炭の採掘や、坑内で採掘作業もはじめた。当時は採炭は急がせるものの、掘った石炭を輸送する設備もなく、中国人が背負っていた。「橋もなければ、二、三の沢をよじ登ったり下ったりしていた。十月になると凍るので、往来するのにカンジキというすべり止めを取り付け、三キロほどの所を行き来していた」(『三井芦別炭鉱』)という。坑木や石炭を背負った中国人たちで、いまにも倒れそうによろよろ歩いているのを、同じ現場で働いた日本人は見ている。
 酷寒の一~三月になると、芦別鉱業所では地下足袋やゴム長靴を班長以上には配給したが、現場で働く日本人や朝鮮人、中国人には在庫品なしと称して渡さなかった。代わりにワラで編んだツマゴワラジをはかせ、手にもワラで作ったものをはめさせた。だが、日本人は木綿か古い毛布を足に巻きつけてはくとゴム長靴のように暖かいが、素足にはくと冷たい。多くの中国人に凍傷者が出た。
 中国人の場合は、粗末なものを食べさせられていた。芦別に来たころは小麦粉の饅頭を一日に三個ぐらい渡されたが、一個はにぎりこぶしほどの大きさなので、空腹に泣かされた。ところが真冬になると、麦や大豆を煮たのが配られた。ときどき澱粉を取ったあとの粕を丸めたのがきたりしたので、ほとんどの人が栄養失調になった。「私たちが合宿所で食事をして、食べ残りを窓から投げ捨てると、大勢の華人はわれ先にと争って走って来、それを拾って食べた。炊事場の流し尻で、水と炭殻の中に沈んでいる米や豆類を手ですくいあげ、その場で食べている姿も毎日見うけられた。こうしてゴミ箱に捨てられた、犬も猫も食べないような腐敗した不潔なものを、我れがちにあさって食べていたことは事実だった。華人らにとって、いかに食べ物が不足していたかが、これで分かると思う。空腹なので、恥ずかしいも何もないのだ」(『語り継ぐ民衆史』)と証言している。
 食料の不足と不慣れな作業、防寒衣服もろくに渡さないので凍傷患者が続出し、不衛生のため一九四五年に発疹チフスが流行し、とくに二月と四月に多くの死者が出ている。死者は戸板に乗せられ、担がれて芦別駅裏の墓地に運ばれ、捨てられた。極端な時は、「生きているのに棺桶に入れられ、やはり駅裏の墓地まで持って行かれて捨てられた」という。
 芦別鉱業所の中国人連行者は船中死亡者五一人、上陸して到着するまでに二三人、鉱業所の現場で一七一人の計二四五人が死亡している。この他に下請けをしていた川口組芦別出張所では六〇〇人を連行し、途中死亡は一人だが、作業現場で二七二人が死亡したので計二七三人で、合計五一八人が死亡している。しかも、死体はまだあるという風評で一九五五年に芦別共同墓地を発掘し、遺骨五体が見つかった。川口組所属の中国人と推定されている。ところが『芦別市史』には、芦別の中国人は「待遇もほかの地区と異なり、戦時中としては良い方で、ことさら強制労働はさせなかった」と書いている。五一八人の死者と、負傷して帰国した七四人(芦別鉱業所)の場合は犯罪といってもよく、待遇は良い方であったとはどうして書けるのだろうか。







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