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文学
現代人をヴィクトリア朝に投げ込む
書籍・作品名 : フランス軍中尉の女
著者・制作者名 : ジョン・ファウルス/沢村灈訳 サンリオ1982.3  
すすむA   58才   男性   





ポルノを思わせるタイトルのため長い間敬遠敬してきた。実に面白かった。著者のジョン・ファウルズ(1926-2005)は1985年に筆を折ったそうだが、残念だ。

19世紀ロマン派恋愛小説の作りである。舞台は1867-1869年のイギリス。100年後の1969年に書かれた本だが、その間の時代変遷をあえて暴露する。文中に作者が頻繁に登場し、あれこれ現代風な解釈を加えるのだ。例えば「静穏な空から原子爆弾を投下された街のようだった」という地の文に仰天させられる。メタフィクションである。

私には、20世紀現代人をビクトリア朝の中に投げこみ、時代の制約のなかで藻掻かせる、という読みが適当だと思われた。タイムスリップではない。登場人物に戻るべき「現在地」はないのだから。その反対に彼らにとって違和感となる「あの時代の特質」は余すところなく描かれる。従って読者はビクトリア朝を丸ごと知ることになる。

主人公はチャールス・スミスソン、独身の古生物学者である。準男爵で独身の叔父に育てられた。伯父が死ねば地位と財産を相続する。婚約者がいる。アーネスティーナ・フリーマン。豊かな商業経営者の一人娘で莫大な持参金持ちだ。父親は娘を貴族夫人に収めたいという上昇志向がある。

アーネスティーナは結婚前のひと時を南イングランドの保養地ライムに住む叔母の邸で過ごしている。チャールスも化石採取かたがたこの地にきて婚約者の部屋を見下ろすホテルに滞在している。

ある日二人が海岸を散歩していると、突堤に一人の女が佇んでいるのが見える。ビクトリア朝に女性が一人ぼっちでいるのは異常である。彼女はセアラ・ウッドラフという家庭教師で、難破した船に乗っていた素性の怪しいフランスの「中尉」に恋して身を任せたが、帰国した彼はそれきり不明で、遊ばれた馬鹿な女という噂である。町中から非難されて家庭教師をやめざるを得ず、典型的ビクトリア朝倫理観を持つ上流婦人の秘書として働いていたがそこも解雇される。チャールスは反抗的で聡明なセアラに魅了され恋してしまう。婚約者が凡庸な女に見えてくる。

勤め口を解雇されたセアラを追うチャールスは居所を探し出し結ばれる。驚いたことに彼女は処女だった。話のすべては彼女自身の創作だったのだ。出会いも逃走も仕組まれたもので、彼は騙されたと知る。だが結果責任は負わねばならない。更に独身主義の叔父が若い女性と結婚して貴族の称号を継ぐことが不可能になる。婚約者の父はチャールスに共同経営者になれと奨めるが、彼に労働は耐えられない。さらに召使サムが、セアラへの贈り物として託した宝石をネコババし、アーネスティーナの女中と駆け落ちしたりする。サムは、伝手を得てフリーマン氏の店の店員となり、斬新なウインドウ装飾で出世してゆく。

チャールスがアーネスティーナとの婚約を解消している間に、セアラが再び行方不明になる。友人の医師は、チャールスを守るためにセアラを精神病にして病院に投げ込もうと画策する。婚約者の父からは屈辱的な要求を呑まされる。「怠け者」貴族のチャールスを徹底的に打ちのめしたいと言う願望が丸見えである。傷心のチャールスは旅に出る。旅先からも新聞に定期的に「尋ね人」広告を出すが応答はない。

2年後帰国した彼はロンドンで差出人不明の情報からセアラと再会する。冴えない家庭教師だったセアラは流行の先端を行く新しい女に変身している。著名画家の秘書として知識人と交際する日々である。彼女の願望は成就されたと感じる。もう一人会わせたい人がいるという。2歳の幼女。彼とのたった1回のセックスで生まれた彼の子供である。

著者はここで二つの終末を提示する。そのひとつは彼女のすべてを許して結婚する。もう一つは彼女の生き方を認めて去る。ここまで来てビクトリア朝的な陳腐な二人の結婚を作者が推奨しているとは思えない。後者に決まっているではないか。

厳しい身分制度の中で、セアラは自分を全うさせるためにあえて醜聞を流し、世間に媚ない生き方を示したのだ。同じようにチャールスもセアラに感化され、伝統貴族の「反時代性」を痛感することになる。

物語の途上に、何度もダーウインの『種の起源』とマルクスがビクトリア朝倫理を突き破る象徴として登場する。次第に没落してゆく貴族階級、産業革命の気流に乗って、貴族に成り代わる新興資本家。それに便乗しようとするサムのような労働者階級が書き込まれ、さらには20世紀前半を象徴する「存在は本質に先立つ」という実存主義が、セアラやチャールスの次第に目覚めて行く思想を形成する「先取り」として提示される。

この先チャールスは先の旅行で魅了された「新しい国」アメリカに渡ることになるのだろう。そうした世界のヘゲモニー交代まで示唆して小説は終わる。実に読み応えがある






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