文学
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受肉と復活 ナターリアの愛とアクシーニャの愛
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書籍・作品名 : Тихий Дон(邦題:静かなドン)
著者・制作者名 : M.ショーロホフ
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Rick
20才
男性
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この作品は一般的に「社会主義リアリズムの時代にありながら、社会主義リアリズムの枠を越える作品」であると受け入れられているが、そうせしめているのは著者の赤軍と白軍のどちらにも与しないある種の客観的な政治的中立性ではない。むしろその理由は大胆に、但し決して表層に現れぬ形でキリストを論じている点にある。主人公であるグレゴリー・メレホフは隣人ステパンの妻・アクシーニャと激しい恋に落ちる。しかし敬虔で家父長制の権化であるグレゴリーの父親はその事実を悩みの種としており、ある日村の美しい娘ナターリアと息子のグレゴリーを結婚させた。しかしグレゴリーはアクシーニャへの想いを隠しきれずに駆け落ちし、やがて第一次世界大戦へコサック兵として出征、その後のロシア革命の波にも呑まれていく。ナターリアはグレゴリーを純粋に愛し続けたが、第三子の出産に失敗しそのまま息を引き取ってしまう。赤軍、白軍と所属を転々としながら戦い続けたグレゴリーは遂にアクシーニャの元へ戻るが、白軍への協力の咎でソビエト政権に追われ、逃避行の最中に追った傷でアクシーニャは死亡する。悲観に暮れて放浪したグレゴリーはついにドン川を越え、村の生家に戻る。物語はナターリアとの間に設けた息子をグレゴリーが抱きしめるシーンで完結する。一見、革命の戦禍に翻弄され、ほぼ全てを失う1人のコサックの破滅と悲恋を描いており、その作風には「全能の神など存在しない」といった無神論・不可知論的な態度が完徹されているようにも感じられる。しかし、グレゴリーのナターリアとの出会い、及びナターリアとアクシーニャのグレゴリーに対する愛をイエスの神性と人性、又は神の愛(アガペー)と人の愛(エロース)の差という観点から眺めた時、この作品が神学的な構造を持っていることに光が当てられる。楽園追放に端を発しバベルの塔、ノアの方舟といった神の軽視と忘却による人間の罪は重なっていたが、人として生まれた(受肉)神イエスがこの世で罪を犯さずしてゴルゴダの丘で刑死、その3日後の復活により回心した人の罪が贖われたというのが現代の標準的なキリスト論の理解とされる。この特徴はあくまでもキリストの受肉は外的な要因であるという点だ。原罪以降、人間の理性や人間の愛は、仮に彼らが神の似姿であっても、神の理性と人の理性との間に大きな隔たりが生じ、人の理性では神を直接プラトン的な観想(アナムネシス)を持ってして認識することはできないとされる。そこで神の側から人間に神であり人であるイエスという存在を通して「介入」し、それに人間が「応答」することが救済の根拠を人の理性の範囲内で知る唯一の道であり、方法となる。テーマを作品の内容に戻すと、父の思惑によるナターリアとの見合い・結婚はグレゴリーにとっては完全に外的な要因による出来事であり、これは当初のナターリアに対する彼の冷淡な態度、および終盤のアクシーニャを喪失した際の慟哭等がグレゴリーの思慕は常にナターリアではなくアクシーニャの側に偏っていたことが根拠として挙げられる。しかし、放浪から戻ってきたグレゴリーが最後に抱きしめたのはナターリアとの子であり、アクシーニャと結ばれることも、彼女との関係がグレゴリーに明確な生きる指針や目標を与えることもなかった。ナターリアとの出会いはイエスの受肉、葛藤しながらも純粋な愛を持ち続けたが、理不尽に急死してしまう結末はゴルゴダでの刑死、そして最後にグレゴリーが残されたナターリアの息子を抱擁するシーンは復活と救済に対応しているのではないか。このように、グレゴリーの破滅ではなく、彼の救済を主題に据えるならば、人の愛(エロス=アクシーニャの愛)では人を救済することができず、人の救済の根拠はただ神の愛(アガペー=ナターリアの愛)によるのだという神学的テーゼ(或いは人間至上主義に対するアンチテーゼか)を提示していることになる。中世から近代にかけて主に教会主導の敬虔主義から理性や科学、哲学の発展がどこまで信仰と両立可能かを探る啓蒙主義への変遷があった。ガリレオ・ガリレイやシュライエルマッハー、スピノザ等がその嚆矢である。しかし、ハンス・ヨナスが指摘するように、この啓蒙主義に根ざした理性中心主義・ヒューマニズムの神学は際限なく拡大する資本主義とそれの対立概念としてのファシズムの誕生、道徳の観点が欠けた目的論的な科学の発展による二度の原子爆弾の投下等に間接的に影響を与えた。人の理性では人自身を救済することはできない。もう一度人は神を取り戻さなくてはいけない— それに対する具体的な方法論が今現在も明確でない以上、『静かなドン』が提示する神学は現代でも十分に前衛的かつタイムリーな議題である。 |
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