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評者◆秋竜山
絵は「読む」ものである、の巻
No.3444 ・ 2020年04月18日




■井出洋一郎『知れば知るほど面白い 聖書の”名画”』(角川文庫、本体七二〇円)。絵は描くものであり、眺めるもの。
 〈長いこと、絵は「読む」ものであった。絵が単に眺めて楽しむものになったのは、一九世紀の半ばになってから、日本でも明治になってからのことである。それまで絵は物語や歴史や何らかの思想内容をイメージとして表現するコミュニケーションの手段であり、それは言葉に置き換えられるものでなければならない、つまり読むものであった。〉(本書より)
 絵は描くものであり、その描いた絵を眺めるものであるということは今では当たり前のことであるが、絵は読むものであったといわれると、読むとは何か? と、いうことになる。展覧会場の壁などに並べられてある絵を眺めながら蟹のように横歩きですすんでいく。たしかに眺めている。そして、絵は壁にかけられるものである。それを眺めるというものか。そして、眺め読んでいるということになる。写真も眺めるものだとばかり思っていたら、「写真を読む」などと、いい始めた時、その表現に実に新鮮さがあった。写真を手から壁へと並べられると、眺めると同時に読むようになった。読むとは、つまり言葉である。画像を読むということで別の楽しさを味わうことができる。
 〈二〇世紀の画家たちは、絵を意識的に「視る」オブジェに変革したが、二一世紀の私たちは「視る」ことも「見る」こともヴァーチャルで済ませる世界にいる。したがって私たちの絵を読む能力はDNAとして記憶されているのみで、今日著しく失われた才能となった。〉(本書より)
 展覧会場に並べられている絵を、眺めながら次の絵に移る過程というか、空間をへて次の絵になる。その空間のあき具合も楽しいものである。あき過ぎてもいけない、ちょうどよい横へのキョリ感によって眺める楽しさを味わうことになる。そこはちゃんと計算されている。
 そして、壁にかけられてある絵で一番注意をはらわなくてはいけないことは、かけられている絵(額)が、たとえ一ミリでもどっかへ傾いていたりしたら、それだけでその絵の価値を失ってしまうというものだ。考えてみると、世界中の壁にかけられている絵で傾いた額ぶちの絵は一作品もないということである。たとえば、何億円とする作品であったとしても、傾きによって台なしとなってしまうだろう。一流ホテルや旅館などにかけられている絵も傾いたものはないだろう。ところが、あったりするものである。そして、そのような絵によって、一流ホテルも旅館も三流ホテルや旅館になってしまうものである。怖い話だ。
 旅さきの旅館などで部屋に通されて、まず眼につくのが床の間にかけられている絵である。傾いている。それは絵に対する無神経さと同時にホテルとか旅館そのものの無神経さとなり、客としては実に不ゆかいでもある。絵を眺めたり読んだりする以前の問題だろう。余計なお世話かも知れないが「絵が傾いていますよ」と、いってやる。「アッ、そーですか」という返事だけで、なおそうともしない。そして帰る時まで傾いたままである。そんなことをいう資格が自分にあるだろうか。自分の家の壁の絵はどうかというと傾いたままである。困った絵である。と、いうのも、なおしてしばらくすると、傾いてしまっているのである。そういえば、柱時計も傾きはないにしても、いつも十分間もすすんだままで時をきざんでいるのである。そういえば、時計は眺めるものであり読むものである。







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