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評者◆凪一木
その32  ダンピング
No.3433 ・ 2020年02月01日




■試験勉強をしていて、久しぶりに、ダンピングになった。
 ダンピングとは何か。最近はあまり聞かぬが、一九七〇年代には、新聞テレビでもよく見かけた単語だ。海外市場において、国内市場より大幅に廉価な商品を販売することを言い、「不当廉売」と訳される。貿易ダンピング、為替ダンピング、とにかくストンと落とすことを指す語である。
 今では、胃の切除をした患者に見られる術後の症状として使われることのほうが、一般的だ。
 この場合のダンピングとは、食べたものが、急にストンと小腸に落ちることを意味する。本来なら大きな胃で消化するのであるが、胃が小さくなったか、もしくは無くなったかによって、いきなり小腸に落ち、そのためインシュリンの分泌が過剰に分泌され、低血糖状態になるのである。早期ダンピングは、食後すぐのもので、嘔吐、腹痛、下痢など。後期ダンピングは、脱力感、冷や汗、めまいなどだ。
 胃を三分の二だけ切除したという患者が一般的で、その症状は軽く、私のような全摘(全部を摘出した)患者は、その術後回復の圧倒的な差によって、「三分の二」患者に対して、恨めしさすら感じる。羨ましかったし、焦りもした。それほどに、少しでも胃がある奴とない奴とは、差があった。特にダンピングでの差が激しかった。
 この早期ダンピングは、術後一年もすれば直るというが、私の場合、どうやら食べる行為が激しすぎる。要するに好きな食べ物を吟味せず食べてしまう。量も速さも間違えるため、この早期ダンピングは未だに起きている。食べる品目によって、起きる加減を、予め知ってはいるのだが、それでも、必ず「忘れて」或いは「考えずに」やってしまう。それほどに食べたいし、スピードを上げてしまう。ゆっくり食べるのがまどろっこしい。そしてトイレへ行って、お決まりの嘔吐を繰り返す。後悔しながら、「なんでいつも、やってしまうのだろうか」。
 一時間程度食道を垂直にしていれば収まる。だが、その一時間の苦しさの中で、妻に「学習が足りない」などといわれながらも、どれほどに身体の苦しさで覚えても、それでもやってしまう。
 「こんなことなら、食べなければよかった。もっとゆっくり食べればよかった」
 だが実はあまり心配していない。問題は後期ダンピングのほうである。
 これは、術後の数年に比べると、頻度は落ちたけれども、今でも一〇日にいっぺんくらいはなる。理由は大体知っている。甘いものを一気に食べ過ぎると、食後二~三時間で起きる。それも体調の悪い時に起きる。
 どうするか。別に吐きたい気持ちになるわけではなく、ただただふらつく、頭が働かない。ものを考えるにも糖分が必要で、実際、頭に砂糖が足りない感覚になる。夢遊病者のように、甘いものの補給を目指す。道を歩いている時になると困るので、よく砂糖や飴玉を持ち歩く人がいる。私は、ひたすらボーっと耐えて歩くが、たいていは五〇〇メートルも歩けば、自販機があって、そこで腰掛けてコーラを飲む。腰掛けてしまうのは、もう歩けない状態だからだ。その意味では危ないのだが、それほど気にしていない。
 私の場合、ひどい状態になるのは、起きているときではなく、甘いものを食べて、ふらりと寝たときに起きる。1~2時間で目が覚める。理由は、ダンピングで目が覚める。このときの状態が、もう野獣なのだ。野獣としか言いようがない。とにかく、コーラぐらいでは間に合わない。
 初めのころは多量に砂糖を食べたりしていたが、今はそこまではしないけれど、しかし、食パンにたっぷりとマーガリンを塗って二枚一気に食べる、焼いている時間など待ち切れず、動かないで冷蔵庫の前の床に座って食べる。動けない。ただただ手を伸ばし、ありったけのお菓子や甘いものを流し込む。ヨーグルト、チョコレート、饅頭などだ。今日の場合は、アイスクリーム、ビスケット、コーヒー牛乳、チョコレートパン、やはり野獣のように食べて寝た。一時間位したら治まった。
 かつて入院していたときに、糖尿病患者から体験を何度も聞かされた。また直接目撃もした。惨めだった。食べたくても食べられない、しかし食べたい。もし許可が出れば、まさに堰を切ったように野獣のように食べる。
 胃がんとは別の血球の病気で入院していたとき、隣のベッドに、糖尿病患者がやってきた。初日の夕食を見て、それはただのフルーツゼリーだったのだが、彼は「おっ」と喜んだ。「病院では小さいけど、酒も付くんだね。へえー」。その後に怒り出した。「なんだ、ゼリーじゃないか」。
 当たり前だ。病院で酒は出ない。しかしそれぐらいに飢えている。
 私のダンピングのときもまた、その糖尿病患者を思い出すのだ。しかも、胃を取った人は、それでなくても糖尿病になりやすい。そのためにとても良くない行為であることを分かっていながら、ダンピングの応急措置として、甘いものを放り込む。そのとき一気に血糖値を上げていることなど合点承知之助だ。それでも背に腹は代えられぬ。
 二〇一九年公開の映画『ベン・イズ・バック』でも、必死に麻薬をやりたくて母にウソをつく息子。そこまでしても薬をやりたい。二〇〇五年に放送されたドラマ「積木くずし・真相」で、安達祐実が「このやろう、カネだせよ。二千円出せよ」と、杉田かおる演じる母を殴り蹴る。本当はそんなひどいことをしたくない。だけどそこまでしても遊びにいきたい。不良仲間であろうと、なんだろうと友達が待っている。行きたい、行きたい。麻薬中毒者もそうだろう。惨めな野獣と化すのだろう。やりたい。やりたい。
 『現代やくざ・血桜三兄弟』という映画で、菅原文太の弟分の田中邦衛演じるチンピラが、組を再興しようと、実家へカネを物色しにいく。息子の帰りを待つ惨めな母一人貧しく暮らす家へと行く。そこで、仏壇に供えてあった虎の子の金を奪おうとして母と格闘になる。結局殺してまで、奪っていく。「どうしても必要なんだ」と、田中邦衛は、もう取り憑かれたように、母を暴行する。
 悲しいよ。そりゃあ、みていて悲しいよ。だけど人間って奴は、たかが砂糖のために、麻薬のために、仲間のために、宗教のために、国家のために、何も見えなくなって、やるんだ。そのことを、毎度、ダンピングのたびに、私は味わってもいる。悲しさを味わっている。
 いよいよ来週が試験なのである。
(建築物管理)







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