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評者◆凪一木
その31 警備のヤスパース
No.3432 ・ 2020年01月25日




■以前から書いているが、資格試験(ビル管理)の勉強をしている。ハッキリ言うと、人生史上最大最苦痛の猛勉強だ。
 過去に私は何度か東大を受験している。恥ずかしい話だが、合格の仕方は今でも「知っている」と豪語したくなる。もちろん最終学歴高卒の私が語ることができるのは、「不合格の仕方」の方である。今回の試験はその四〇年ぶりのリベンジかもしれない。そのために、一〇日間の有給休暇を取り、ほぼ毎日一三時間程度は机に向かった。
 結果を書いてしまうと白けるので、しばらく伏せておく。
 入社以来三年の間、病気やけが以外に一度も有休を取れていない人間が、なぜ一〇日間連続の休みを取ることができたのか。堅気とやくざの違いというわけでもないが、これも唐栗があり、いずれ書こうと思う。

 以前に、ホームレスからビル管を目指した同窓生の話をこの場に書いた。私より五つ年上で、クラスの間ではクマと呼ばれていた。クマは、九州大学を卒業し松下電器産業に入社した。エリートコースと言って良い。そんな道筋の男が、なぜホームレスにまでなったのか。「なったのか」などと曖昧な表現ではなく、「転落したのか」と直接書いた方が良いだろう。
 クマには同棲していた結婚間近の彼女がいた。ライオン(仮名)さんだ。博多でも有名な女性だったゆえ、仮名は何の関連もないことを断わっておく。映画会社東宝の大株主の娘でもあった。ライオンさんが京都に住みたいというので、京都の山城に二人で移り住む。だがライオンさんは自殺する。クマはまだそのとき、二三歳だった。クマは転落した。それ以来結婚はしていない。ビル管を目指したクマの今は、造園業勤務だ。タフでホットなそれでいて哀愁漂うサイレント・ガイだ。私は大好きだ。ライオンさんが当時、博多で通っていた店は「ビートル」と「ブラック&タン」……。

 さて、ショーペンハウエルである。
 今、共に働く職場に、一人の巨人がいる。むしろ虚人と言った方が良いかもしれない。
 私は彼を「警備のヤスパース」と呼んでいるが、現場の皆は、「インテリさん」とか、「大学院崩れ」とか、「仕事をしない男」などと呼んでいる。
 左翼映画の主人公みたいな顔をしている。早稲田の大学院を出たという。父は一流大卒で日立製作所。母は直江津(新潟)の大地主の娘で、ヤスパースはずっとボンボン育ちだった。だが中学のときに、父が借金を背負い高校に行かないと言い出す。余りにも成績優秀だったために中学では大騒ぎになる。それで給付金で都立北豊島工業高校へ行くことになる。工業高校だが、毎年一人二人は東大に合格する程度の進学校である。旺文社の全国模試で二位も記録する。今度は特待生で早稲田大に進学。そこでもまた成績優秀で、給費試験を受けて、オハイオ州立大学に留学。二年間のところ、一年半で戻ってくる。実はもともとが変わり者であった。
 その後、早稲田大学に残って、教授の学術論文を英文に、またドイツ語の翻訳を、ヤスパースやショーペンハウエル、ハイデッガー、カント、ヘーゲルなど有名どころから無名まで哲学に限り訳し続ける。これも週五〇から六〇時間で月に三〇〇万も稼ぐことのできる高額の仕事であった。この翻訳稼業を一〇年で、五~六〇〇〇万の金が貯まった。だが、一切の仕事を投げ出すのである。
 まだ四〇歳前だったが、もう一生仕事はする気が無かった。暇だったので、たまたま警備のアルバイトを、一カ月間のつもりで、片手間にやってみる。結局、そのまま居ついたのが今の状態である。会社の命令には基本的に従わないし、かといって穏やかな人間なのでトラブルも起こさず、しかし社内の人間と付き合うこともない。
 酒は警備の給料の倍ほど毎月飲んでいたが、病気で止め、七〇歳近い今は、タバコを一箱程度毎日喫っているのみだ。
 英語ができるので、警備で「大使館勤務」という役回りが回ってきた。
 「元プロ野球選手が草野球チームで投げてくれと言われるようなものだぜ。下手に軟式のボールなんか投げたら、硬式で生きてきた選手は肩を壊すよ。ドイツ語のしかも哲学の俺に下らねえこと言うんじゃねえ、と心では思ったけど、口には出さずに、さらりとお断りしましたよ」
 世捨て人と言えば世捨て人だ。何が楽しみなのか尋ねてみた。
 「競艇だね。ずっと競艇三昧で、競馬競輪はやらない。その他の趣味も一切ない。読書は習慣だから、大学辞めてからも一万冊ぐらいは読んでいると思うよ」
 だけど、なぜ翻訳を辞めたのか。初めは、その話題をはぐらかしていた。だが、親しくなってから、あるとき、ぼそっと言った。
 死んだんだよ。
 「内縁の妻とでも言おうかな。天理大の名誉教授の娘でね……」
 クマが語ったときと同じように、熱く、力強く、それでいて、内側の奥に、もっと計り知れないマグマのような表現のしようのない怒りとも悔恨ともつかぬものを抱えている様が、そこにはあった。自殺だった。
 その男が、私に言うのである。
 「今、何をやっているんだ」と。
 「試験勉強です」と、私は寂しく答える。
 「そんな下らないことをやっているのか」とでも言いたそうだ。だが、そうは言わず、嘲笑か溜息のような微かな音だけが漏れ聞こえてくる。
 「そうか……」と答えるだけであるが。
 ヤスパースのいる警備会社は大手である。現場に今いる隊長は優秀だ。社内で五人しかいない上級職の資格を苦学して取得。隊長もかつては大学でそこそこ遊んでいた。ダスキンで、ディズニーランド開園最初のアルバイトをやった話やホール・アンド・オーツのコンサートなどの当時の思い出話は面白いのだが、会社で勉強をし始めてからの人生は、社内的には成功者でもあるのだが、私にとっても「聞かせない」話ばかりである。
 警備のヤスパースは言う。「ためになる勉強ばかりしてきたような男だろう、隊長は。面白い奴のはずが無いよ」。
 そんなヤスパースの目の前で、今私は警備の隊長に輪を掛けて、不浄に、心を入れずに、「勉強」をしている。
 「志学」と言われる年齢を四〇以上も過ぎた男が、大学受験時以上に、迷いと諦念を相当程度に湿らせながら、机に向かっていた。
 「ショーペンハウアーが言ってるだろう。本を読むと馬鹿になる、って」
 ヤスパース(警備の)の言葉が身に沁みる。いや、立ちはだかるのである。
(建築物管理)







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