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評者◆凪一木
その6 試験の無念
No.3407 ・ 2019年07月13日




■いまのところ、私が取った資格は、「危険物取扱者乙4類」「二級ボイラー技士」「第2種電気工事士」「第三種冷凍責任者」といわゆるビルメン四点セットのほか、一階の防災センター勤務に必要な資格の「自衛消防」と「防災センター要員」というものだ。これで、就職にはありつけた。
 だが実は、ひとつだけ落ちている。消防設備士乙6類試験だ。一か月間、猛勉強したから絶対に合格していると思っていた。「負けの世界」を味わうことになる。受験以来だ。大学には四度落ちている。
 ちくしょう、多寡が消防の試験。多寡をくくっていたわけではない。落ちてよかったよ。
 これは、負け惜しみではない。惜しいといえば惜しいけれど、それは落ちた者の皆が口にすること。実は、こんな惨めな気持ちになれたことが愛おしい。
 こういう気持ちは、そうならないと分からないものだ。今は、今こそ、そうなった人の気持ちがわかる。何とカッコ悪いことか。
 落ちたことに対して、妻が、物申す。
 今回はあの「願掛けをしなかったからだ」と言う。
 「願掛けって何よ」
 過去の危険物とボイラーは何となく願を掛けて、試験前日にカツカレーを食べに行ったのだ。だけど今回の消防は、何かかにか忙しくて、ふらりと受けに行った。
 「カツカレーを食べに行かなかった。それで二点分、脳に血液が回らなかったんだよ」
 妻がそう言ってくれたのが救いだった。自分だけの責任で落ちたわけじゃないと言われているようだったからだ。自分だけで世界が回るなら、遊びのないハンドルみたいなもので、とても危険だし、その重さに耐えられずに、誰でも皆自殺してしまうだろう。ギリギリで不合格になることが、こんなにも堪えるとは思わなかった。
 オリンピックで四位になった人たちのことを、「失恋の過酷さを知っている人たちだ」とかつて書いたことがある。だが今となっては、その書き方は余りにも軽過ぎた。結局、弱い者の気持ちなど強い者には分かりっこない。足を踏んだ者が踏まれた者の気持ちをどうやってわかるというのだ。落ちた私の惨めさがまさにそうなのだ。合格者の言葉など聞きたくもない。
 失敗をすると、優しい気持ちになれる。挫折というほどのものでもないけれど、幾つかの躓きと共に、豊かになる領域がある。それは、あの学校で見る、東京都のお役人たちに共通する、縦割りの妙に真っ直ぐな顔つきの中には存在しない、美しい文章の行間のような世界だ。
 「負けに不思議の負けはない」と、プロ野球三冠王の野村克也は言う。つまりどんな負けにも、負けるだけの理由がある、というわけだが、そこには単に不足や欠損ばかりではない。余裕や奥深さや躊躇や断念も含まれるのだ。
 「幸福は一様で、不幸は多様だ」というトルストイの言葉(一部誤用)のように、負けは負ける理由においては不思議はないけれども、負けこそが人生の不思議だらけのはずなのだ。それは、上手く行ってばかりいると、分からない。野村克也のように、多くの失敗と苦汁と挫折を味わい経験してきた者でさえ、なかなか忘れてしまう世界だ。
 『三年B組金八先生』では、高校受験当日に、途中で倒れている老人を助け病院へ送り届けしているうちに遅刻し、不合格となる生徒の回があった。
 勝ち続けている限り、結局は、分かったつもりの人生をひた走っているにすぎない。分かるということは、負けることによってしか分からない世界だからだ。
 学校といってもかつてなら、せいぜい同い年か同じ世代だ。しかし、いま通っているそれは、「四五歳から六三歳まで」一八学年の中に二七人が、年齢だけではなく、業種も様々、家族構成、離婚歴、まぜこぜにいる。それらの人と殆んど毎日、生活そのものが丸見えになるような形で、受験と就職という目標のなかに組み込まれて、身体ごと付き合う形になっている。生涯付き合えるような出会いもある。
 その交友録に比べたら、試験に落ちたとか、受かったとかそんなことはどうでもいいことだ。逆境の時にこそ、どう振る舞い、どうすることが出来るかが勝負であり、人間の力量であり、懐の深さなのだ。
 常に前もって準備して好成績を残す人間に時に魅力を感じないのは、準備なく賭けに出て失敗した者の情けなさを分かりはしないだろうと思うからだ。賭けることで、怠けた(準備を怠った)という負い目を共にした上での責任を背負う辛さは、偉そうに言えない寂しさが付いて回る。
 汚れ役を買って出る元カメラマンや、ひたすら黙して語らぬ口の重く固い離婚したばかりの同窓生たち、それだけ、負けを知っている男たちなのであろう。順境の時の力など、本当は、抵抗計の針の触れる値としての表の顔でしかない。抵抗とは別の、電流を邪魔する誘導性リアクタンスのような存在だ。順風な時の無抵抗状態と、もしくは単に抵抗値として登場する電気抵抗しか知らない者は、実は弱い。
 「誘導抵抗」「感応抵抗」などと呼ばれるリアクタンスという、現実には電力消費しない擬似的な抵抗が、邪魔する幽霊として存在する。この地上に存在しないようなほぼ架空の抵抗と、電気抵抗とを合わせてインピーダンスという解が求められ、そのことで電流、電圧、電力が分かる。ゼロ以上の値の表の世界と、一方で、表向きは存在しないゼロに向かう見えない闘いこそが本物の闘いであり人生だとも言える。人生は往々にしてそちらの目に見えない力が左右し、神の悪戯が起きるものだからだ。
 とは言え、落ちてしまった無念で結局はだらだらと書いてしまった。
 あの問題をあそこでどうしてこうしたなどという言い訳はいくらでもできる。それはしかし、諦めの悪さと無駄な悪足掻きにしか見えない。そんなことについての事細かな実情や感覚は、本人にしか分かりようもなく、口に出してみたところで、本当のところが伝わる相手などゼロであり、いわば自分一人で抱える孤独のようなものだ。
 「文学の条件は孤独であることだけだ」という言葉があるが、負けることで、落ちることでしか文学的領域には近づけない、ととりあえず書いてみる。今さらどうこう言っても過去は変わらない。それでも過去を振り返る私は、諦めが悪いことこの上ない。
(建築物管理)







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