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評者◆杉本真維子
親たち
No.3396 ・ 2019年04月20日




■連日、報道される子どもの虐待事件について考えていると、思いがけない方向へ心がうごく。子どもが受けた数々の仕打ちを想像しているうちに、それ、知ってる、というふうに、なぜか馴染みぶかく思える。具体的な記憶は見当たらないのに、つらい感覚だけが、思い出されてくる。どういうことだろう。自分に対し、何か隠しているかもしれない心のなかを、後ろめたさと、おそろしさを、掻き分けてすすんだ。
 4歳のころ、私はブルーの水玉をあしらった透明なリボン型のヘアピンが気に入っていた。「それ、お父さんに貸して」。父にそう言われ、「だめ」と言って、貸さなかった。すると、父は猛烈に怒り、私を手洗い所に連れていき、扉を閉めてしまった。このまま、もう出られないかもしれない。宇宙にひとり取り残されたような恐怖で、必死に扉を叩いた。ドンドンドン、ドンドンドン、出してー。
 こう書くだけで、心臓がどきどきしてくる。時間にすれば短く、たぶん数分くらいのものだろうが……と短く想定するのは、私の見栄のようなものだろうか。いずれにせよ、あの絶叫は、生まれて初めての、死に物狂い、というものだった。体がふらつき、和式の便器に片足をついて、かなしくなった。しばらくして、すっと扉が開いて、新鮮な空気が流れこみ、転げるように廊下へ出た。そのあと、どうなったのか。
 あの激情の裏に何があるのか、私はなんとなくわかっていた。父は初めての女の子に浮かれるほど喜んでいたようだが、接し方についてはまるでわかっていないひとだった。そもそも男親が、娘のヘアピンを借りるなんて可笑しな話で、ほかにも好物のおかずを横取りしようとしたり、男子が女子をからかうような、不器用なコミュニケーションのとり方をして、しょっちゅう私を不機嫌にさせていた。それに苛立ちを募らせ、「お父さんの言うことを聞いてくれないなら、お父さんも聞かない!」と、呆れるほど子どもっぽいことを言い放ったこともあった。娘に嫌われることを極端に恐れるくせに、自らそんな状況をつくりだしているのだった。
 以前、私は友人の家で、小さな娘がお父さんの膝の上に座り、うねうねぐにゃぐにゃと絶えず動き続けているのを見て、あれは何か、と驚いたことがある。自分はあんなふうに父に甘えたことがない、父は断片でしか存在しない、と気づき、その理由を考えつづけてきたが、わかった気がした。あの閉じ込められた日、父に対し恐怖心をもった。それが尾を引いて、成人するまでの多感な時期に、まともに関わることができなかったのだ。
 心の萎縮と反発しか生まない,という暴力。その二つの条件が、私のなかで揃っていたのは意外なことであった。トイレや物置に閉じ込めるというのは、昔からあるお仕置きの一つだが、あれは体罰であり、まぎれもない暴力なのだ、と思った。だから、暴力を受けた記憶はないのに、それを受けた子どもの心に、覚えがあるのだ。なんということだろう。体罰がだめといわれるのは、このように、心と心をつなぐ電流のようなものを、無慈悲に切って、本来なら豊かに生まれたはずの思い出も無にしてしまうからだ。
 その恐怖心は、父が死ぬまで、消えなかった。おとなになり、ふつうの仲のよい父娘に見えても、僅かな沁みのように、残ってしまった。面白い父親でもあって、私が人と違う道に進むことを願い、ヘリコプターとか、スノーモービルとか、いろいろな乗り物に乗せて、視野をひろげるための努力をしてくれたが、そういう善いことを以ってしても、帳消しにならない。それくらい、救いのない、絶対的な傷というものがある、と知った。
 晩年、父は自宅に訪ねてきた古い友人の前で、私の話をしながら声をあげて泣きつづけていたと、あとになって聞いた。もし父がそんなに泣くほど悔やむことがあるとしたら、このことだろうか。もしそうなら、ただただ、仕方がない、と言いたい。父はそれくらい、一つだけ、取り返しのつかないことをした。







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