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評者◆稲賀繁美
『方丈記』の「世界文学」仲間入りに、夏目金之助はいかに関与したのか――ワーズワースの汎神論、H.D.ソローの隠遁生活の傍らに鴨長明を位置づける
No.3390 ・ 2019年03月09日




■鴨長明『方丈記』(1212)を最初に(部分)英訳したのは、夏目漱石だった。『全集』26巻に原文・和訳が収められているが、万人周知の事実ではあるまい。夏目金之助は明治24年すなわち24歳のおり、東京大学の前身、文科大学校英文科学生として“A Translation of Hojoki with a Short Essay on it”をDec.8,1891の日付で提出している。所望したのは外国人教師のJames Main Dikson(1856‐1933)。24歳で来日し、離日後は南カリフォルニア大学で日本研究の基礎を築く。来日は特命全権公使を務めた上野景範(1845‐1888)の仲介によるらしい。当時、工部大学校(後の工学部)にはHenry Dyer(1848‐1918)ほかの同郷人もいた。伊藤博文や山尾庸三を含む所謂長州FiveのGlasgow人脈が感知される。長老派の宣教師も含め、大英帝国の辺境たるスコットランド出身者は、多く極東に派遣された。
 漱石は『方丈記』など、今日からみれば「幽霊」apparition然たる代物だと卑下してみせる。長明にはWordsworthのように自然のうちに霊的spiritualなものを見出す見識もなく、その厭離穢土の性向にも、人生に対する逃避姿勢が少なくない。金之助はこのように長明の「欠点」foibles and shortcomingsを指摘する。だがこれはWordsworthを絶対の基準に仏教文学を値踏みするDiksonへの、金之助の側の偽装工作、戦術的譲歩だろう。
 駐日英語圏知識人たちは、おしなべて仏教的自然観に対する蔑視を隠さない。またワーズワースは大自然を汎神論的に擬人化した。ところが野の花の命を惜しんだ英国詩人とは違って、日本の隠遁者は花を手折って(偶像崇拝たる)仏壇に捧げる。それはたしかに「ヂクソン」先生の眼には、自然の棄損、現行不一致の「矛盾」inconsistencyと映るだろう。長明は自らがその命を絶った草花、「生命なき自然」inanimate natureに、なぜか唯一無二の「共感」sympathyを寄せるのだから。だが思えばnature is deadの逆説には「静物画」nature morteの観念、自然を「死せるもの」と捉える西洋のVanitas観が透けてみえる。これに反して仏教の厭世者、「悲観癖」pessimisticな長明は、生物と無生物をも包含する「自然へと逃避」したfled to nature――。
 ここには外国人教師の期待の地平に寄り添いつつ、装った諂いの裏に本音を隠した修辞の屈曲がある。Bellamyのユートピア小説の流儀で「隠遁」recluseを嘲笑し、ワーズワースに肖って長明を嘲るridicule欧米の輩たち――。これら「出撃して敵を探すことを美徳と心得る人々」とは、文化的宣教を使命として極東日本に到来した外国人教師への、辛辣な当て擦りだろうが、かれらの「生」と「人間」への執着を見透かし、その議論を底割れさせる返し技。それが漱石の方丈記解説随筆の骨子をなすのではあるまいか?
 ここで漱石はShakespeare『嵐』の栄枯盛衰の叙述を動員し、Oliver Goldsmithのバラッドに見られる、巡礼者への脱俗の誘いを巧みに引用する。これらの詩句も、周到に『方丈記』を弁護する。さらに驚くべきは、このEssayで早くも、将来『草枕』で追求される「人でなし」の「諦念」renunciationや「人間嫌い」misanthrop、「世捨て人」志向が、長明に投影されていることだ。加えて「花や巌」flowers and
 rocksといった対句、animated & inanimateを区別しない価値観は、ディクソンが漱石の訳を流用した論文“Chomei and Wordsworth:A literary Parallel”(1893)においてanimisticという形容詞の登場を促すだろう。そのうえa motion and a spirit, rolling through all thingsといったワーズワース起源の語彙は、「石で口を漱ぎ、流れを枕」とする孫子荊の逸話を彷彿とさせる。Diksonとの『方丈記』翻訳を巡る対峙や葛藤は、作家「漱石」の誕生とも密接に絡まっていた。文末数行の翻訳上の言い訳は、坪内逍遥の沙翁「院本体」訳に対して漱石が漏らす不満を予告する。加藤周一の『自由太刀余波鋭鋒』への「文献解題」(「翻訳の思想」『日本近代思想大系』)と併読すれば、浄瑠璃と西洋悲劇の相性のなさ、「不実な美女か忠実な醜女か」(米原万里)の相克に漱石が寄せた感慨も復元できよう。
 このさき『方丈記』はF.Dikinsと南方熊楠の共訳からHenry David Thoreau(1817‐1862)のWalden(1854)への連想を呼び、隠遁生活の古典として「世界文学」へと仲間入りすべく、さらに飛翔いてゆくだろう。『方丈記』はインドの仏典ほかと並んで、大英帝国治下の東洋古典文学翻訳シリーズのうちに位置づけられることとなる。

*ゴウランガ・チャラン・プランダン氏博士論文公開発表会(総合研究大学院大学・国際日本専攻・基盤機関:国際日本文化研究センターにて2019年1月31日実施)に取材し、当日の講評における発言を備忘録として要約した。







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