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評者◆中村隆之
フランス国立図書館とエドゥアール・グリッサン――フランス政府により「国宝」に認定されたグリッサンの各種資料がアーカイヴ化
No.3370 ・ 2018年10月13日




■フランスにポスドクで留学していた頃に博士論文を準備中の日本の友人・知人からよく聞く合言葉があった。「BNに行く」というやつだ。Bibliotheque Nationale、つまりは国立図書館の略語を使って「BNに行く」と言われると、BNなどという大層な場所に何の用事もなかった当時の筆者には、優秀な後輩たちがひときわ輝いて見えたものだった。
 BNで研究する理由は人それぞれだが、もっとも筋が通った理由はBNのみに所在する資料を利用するということだ。唯一無二の資料の代表格は、作家や思想家が書き残した手書き原稿の類いだろう。実際、日本のフランス文学研究のなかでは草稿研究という分野で、地道だが着実な国際的成果を長年にわたって挙げてきている。カリブ海出身の存命作家を研究してきた筆者にBNが無縁の世界だったのはそういうことである。
 ところが、筆者が研究してきた作家エドゥアール・グリッサン(1928‐2011)の死後、思いも寄らない方向に話が進む。筆者は生前の作家と数回の交流をした程度で深い間柄ではなかったから、グリッサンの死後、周囲で何が起きていたのかをよく知らずにきた。このため、2014年に手書き原稿をはじめとしたグリッサンの各種資料がフランス政府により「国宝」に認定されたこと、さらには国立図書館に所蔵される運びになったことを知ったとき、非常に驚いたものだった。
 さらに月日が経ち、17年、図書館での一般公開がついに始まった。手前味噌だが、筆者自身はその前年に『エドゥアール・グリッサン――〈全‐世界〉のヴィジョン』(岩波書店、2016)を上梓し、自分なりのグリッサンの全体像を描いたわけだが、その著作では当然ながらアーカイヴの資料を参照することはできなかった。さらに18年にはグリッサンの身近にいた哲学研究者フランソワ・ヌーデルマンがグリッサンの伝記を出版した。グリッサン研究を取り巻くそうした環境の変化から、この機会についに「BNに行く」ことにしたのである。
 こうして今年の夏のひと時をBNで過ごしたのだが、案の定、グリッサン・アーカイヴは手ごわかった。恥ずかしい話だが、国立図書館がじつは旧館と新館に分かれており、多くの人が利用するフランソワ・ミッテラン館(新館)ではなく、リシュリュー館と呼ばれる旧館にあることも渡航の一週間前まで知らず、ミッテラン館に歩いていくつもりでパリのチャイナタウンに宿をとったのも当てが外れてしまった。
 そのようなわけでパリでの数日間、チャイナタウンからリシュリュー館の上層階の一室に地下鉄を使って通った。そこはDepartement des Manuscrits(手稿室)という予約制サロンのような豪華な一室で、聞くところでは、ギリシア語、アラビア語、ペルシア語、ヘブライ語、中国語などで記された貴重な写本から、フランス文学関連ではユゴーにはじまり、ベケット、サルトル、フーコー、ドゥボール、バルトに至る手書き原稿などが閲覧できるそうだ。実際、筆者の訪問中、フーコーの資料を鍵のかかった保管室で見かけたり、アラビア語かペルシア語の美しい挿画の入った古い写本を閲覧する日本からの研究者を見かけたりした。
 グリッサン・アーカイヴは、ある程度予想していたように、いまだ整理中だった。1から70の数字に分類された黒い厚紙の資料ケースがあるのだが、整理済みのケースとは違い、未整理のケースでは、まずそれが何のために書かれたものなのかがわからない資料によく突き当たる。タイプ原稿は扱いやすいが、手書きの原稿やノート、とくにメモ書きの類いは筆者にとっては判読しづらい。手稿室ではグリッサンの詳細な目録を貸し出してくれるので、それに当たればアーカイヴの概要は掴める。ところがその目録を手がかりに資料ケースに当たっても目録どおりには分類されていなかったりする。筆者の見るところ、グリッサン・アーカイヴの整備にはまだまだ時間がかかりそうである。
 手稿室でグリッサンの創作過程を調査する作業は、本人に憧れと尊敬の念で接してきた者には感慨深いものがあった。と同時に、グリッサンをめぐる研究環境が彼の死後の段階に入ってしまったことを、多少の困惑をもって受け止めざるをえなかったのも事実である。
 グリッサンのいまだ研究されていない新たな資料が調査可能となったことで、たしかに研究面での進展は今後さまざまなかたちで出てくるだろう。とくに自伝的な要素については先の伝記もふくめて生前よりも多くのことが分かってくるにちがいない。しかし、本当に大切なのは、グリッサンが生前に出版した著述を読むことである。グリッサンの著作の全容を捉えることがもっとも重要なことなのだ。当たり前だが、研究は対象の範囲を限定すればするほど緻密になりうる。しかし、そうした細部の研究はしばしば全体を捉え損ねる。今後、アーカイヴを利用してグリッサンの特定の時代や分野に限定する専門家も出てきそうだが、正直なところ、筆者はそうした研究には大して関心をもてないだろう。
 筆者自身、アーカイヴでの調査をどのように継続させ、研究に活かしていくのかはこの先のことだ。ただこれからは「BNに行く」という合言葉を恥ずかしながら使ってしまうにちがいない。
(フランス文学)







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