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評者◆杉本真維子
エーデルという部屋
No.3308 ・ 2017年06月24日




■仙台在住の画家・樋口佳絵さんが、私の詩(「エーデル」)に、絵をつけてくれた。それが詩版画集というかたちになり、6月に日本橋高島屋美術画廊Xでの樋口佳絵展で発表される。個展の名は「E」で、送られてきたパンフレットを読むと、エーデルの「E」であるという。詩版画集のことはもちろん知っていたが、まさか一篇の詩を、個展のタイトルにするほど大事に展開してくれるとは思わなかったので、驚いた。
 私がほとんど「エーデル」のことを忘れて、ぼうっと眠って過ごしているあいだに、画家は目を開け、生きていた。ささやかな一篇の詩は画家へとバトンタッチされ、おそらくまったく別の動機となって、筆のさきで息づき、日々命を注がれていた。
 エーデルとは、私が建物につけた名前で、かつて仕事部屋として借りていたアパートの一室がモデルになっている。それはそれは謎めいた部屋で、L字型の巨大なロフトと梯子はどこか滑り台のようだったし、天窓を開閉する長いチェーンは、遊具の様相で揺れていた。狭い室内なのに、入った瞬間、のどかな公園に来たような錯覚をおぼえるのだ。
 私はエーデルをいたく気に入り、毎日隅々まで掃除して大事にしていたが、あるとき、急にそこにいることに恐怖を覚え、中途解約して、逃げるように自宅へ戻った。もちろんすぐに後悔したが、もう次の入居者が決まっていた。私はなんとかもう一度借りたいと願い、何年も空室を待った。早くでろ、でろ、と唱えながら、たぶん、5年は待った。いま振り返っても、凄まじい執着であった。
 あれはなんだったのか。
 引越しの日、荷物の搬出をおえ、業者のトラックの助手席に乗っているとき、ポケットの携帯電話が鳴った。郷里の父からの電話だった。
 「解約した」と言うと、父は「ああ、本当によかった、ほっとした」と何度も安堵の声をもらした。日常的に会話している親の言うことはなんとなく聞き流してしまうところがある。なぜよかったのか、ほっとしたのか、父はすでに他界しているので、理由は聞けない。ただ、自分は善いことをしたのだ、という実感だけがあった。
 エーデルの大きな特徴は、ベランダの窓から、赤い朝日がすっぽりと収まることであった。たぶん、人が住むための部屋ではなかったのだ。朝日を入れる専用箱として存在するような、この世から投げ出された、やさしくて、さみしい、一室だった。
 毎日、早朝になると、部屋中の壁という壁が、床一面が、真っ赤に染まった。私の顔も手足も赤々と染まった。それは稀有なよろこびだったが、そのよろこびは、こちらがじっと耐えなければ、のみこまれてしまいそうな、外部からの猛烈な力によるものだった。炊事、洗濯、食事、睡眠……そこで、どんなに人間の生活をしても、人間の生活にならない気がした。
 その意味では、集中力を保持しやすく、詩や散文など、原稿を書くには絶好の場所であった。遅筆の私が、その部屋では何篇も書けた。それも、書き流したものではなく、時間が経過しても自分にとっては納得のいく作品ができた。ほかのことは何も考えなくていい。詩だけ書いていればそれでいい。幸せなことだが、言い換えれば、人間であることを喪失しても構わない、という、部屋との心中を期待するような心へと、私は傾きはじめていた。
 ようやく空室が出たとき、エーデルは事故物件として扱われていた。顔の知らない、私の次の入居者が、そこで自ら命を絶ったのだと知った。その事実に対して、私は何も言葉を発することがきない。でろ、でろ、という誰かの囁きだけが、耳にのこっている。







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