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評者◆吉田文憲
過去の伝説と現在が円環をなす──熊野・波田須に伝わる徐福伝説を下敷きとした「西暦二〇一一」(松浪太郎、『文學界』)
No.3080 ・ 2012年09月29日




 熊野の森をタイムトンネルとして過去の伝説と現在が円環をなす松波太郎「西暦二〇一一」(『文學界』)が、圧倒的に面白かった。それにしても、小説のタイトルはなぜ二〇一一年なのか。こう書かれると、私たちはどうしても昨年の大地震や原発事故のことを連想する。作者の方もそのことはむろん織り込み済みでこのタイトルを付けたのだろう。二〇一一年は、小説の中では、熊野・波田須に住む祖父「ときちゃん」の亡くなった年だ。主人公の「僕」は小学生の頃から夏になると、ときちゃんを訪ねていた。そのときちゃんが語る、波田須に伝わる昔話徐福伝説がこの小説の下敷になっている。
 徐福伝説は、今から二二〇〇年前、秦の始皇帝の時代、不老不死の薬を求めて数千の子供たち技術者たちを引き連れ東方の海の彼方へ旅立つ男の話である。これは一種の蓬莱、楽園伝説といっていいだろう。小説は、祖父の死後、成人した「僕」が徐福の旅立った中国の徐福村を訪ねるところから書き出されている。これは終わりが始まりになっている、といういい方もできようし、二二〇〇年前徐福が辿ったコースを「僕」が逆に辿っている、といういい方もできようか。だからこの小説は亡き祖父の追悼の旅でもあるのかもしれない。ともあれ「僕」が難儀して徐福村と覚しき場所へ着くと、彼の地の村人たちとは言葉が通じない。大八車や荷車のおいてあるいつの時代とも知れない古めかしい民家のまわりを、ニワトリやアヒルやイヌが徘徊しており、「僕」には逆にこの村こそが蓬莱のように感じられる。その先にこんな文章がある。《僕の目の前を多くの事物がすさまじい速度で通りすぎていったような気がした。(略)僕は西暦の極地に一人とりのこされたような気分におちいった》。
 ここに、この小説の核心があるのではないか。「西暦の極地」とは何か。どこか。たとえば中国の徐福村がそうなのか。東方の楽園に擬された熊野・波田須がそうなのか。いずれにしてもそれはそこしか知らなければいえないことだ。二つの場所を知らなければいえないことだ。ここに亡きときちゃんの声が響く。「問題は村を出てしもたことや」。徐福も村を出たのだ。「僕」も、私たちもまた「村」を出たのだ。出たからこそ「僕は西暦の極地に一人とりのこされたような気分におちいっ」ている。ここは、そう読むべき箇所ではなかろうか。この小説は《東天の一点には金色の太陽が鎮座していた》と書き出される。文脈からここに原子の火、原発を重ねてもいい。それがたとえば「西暦の極地」だ、と。かつての東方の蓬莱だ、と。むろん霊験あらたかなそんな存在、場所は、東方のどこにもない。「東方には危険な何かが漂っている」。だからこの小説のラストは《僕はときちゃんと反対の方角にむかって歩きはじめた》と書かれる。そしてここからは「黒い太陽」が昇るだろう。西暦二〇一一年は、祖父が死んだ年であると同時に、東方の蓬莱に「黒い太陽」が昇った年なのだ。
 「西暦二〇一一」が徐福伝説を下敷にしているとすれば、三輪太郎「オオクニヌシたち」(『群像』)は、国土を高天原の神に国譲りした大国主の話を下敷にしているともいえようか。それは政治的敗者の物語であると同時に、オオクニヌシはオオモノヌシとして大和王権の揺籃の地大神神社の祭神にも祭り上げられていることから、大学の古代史の教師でもある主人公は「敗者の無念を呪術的に守護神に転ずる」支配者側の巧みな統治機構、逆にいえばそうして生き延びてゆく敗者の側の身の処し方というものを空想する。そこに、若い時に反発し軽蔑していた会津で政治家をしていた父の「捩れた誇り」を発見する。会津という官軍に焼き滅ぼされた土地、そこへさらにヨソ者として入り込んだ新参者の家系という二重の負い目を生きた父の姿をオオクニヌシたちの歴史の中に再発見する。
 小説の結末は感動的だが、読者としては主人公の感情の高ぶり、このラストの感動にはやや落ち着きの悪さが残った。というよりもある気恥ずかしさを感じた。この感動が感傷に思えたのである。
 佐飛通俊「さしあたってとりあえず寂しげ」(『群像』)は《新しいものなど何もないという、そのこと自体を新しく始めなければならない》という結末をもつ。転職をくり返す高学歴、三十代独身女性のこの時代の生き難さがリアルに描かれている。その一方、「さしあたってとりあえず」はハイデガーの引用だし、右の覚悟、認識はジャン・グルニエから来ている。主人公の女性は哲学的思考の持ち主で、女性の意識の高さが、その生き難さに一層拍車をかけているのかもしれない。上司にセクハラされても「彼女は凡庸な悲鳴など上げなかった」。凡庸な悲鳴を上げればいいのに、と思ってしまうが、彼女にとってすべては予期していた筋書き通り、すべては偽装であり既知なのだ。むろん、そんなことはないのであって、だからこそこの小説では女性が欲望を剥き出しにしてものを食べる場面が生き生きしている。こんな箇所でも作者の知的統覚が強すぎるのだ。少なくともハイデガーやグルニエの引用はこの小説にはふさわしくないのではないか。
 佐飛作品は女性が孤独を演技しているという印象が強かったが、最果タヒ「最終回」(『群像』)はその演技自体の根底にある世界の虚構を問うている。それは構成された言説の葛藤、抑圧に抗う声といってもいいものだが、一行一行にこもる声のいたみ、切実さには、心を動かされた。ある空白へむけて作品自体の自死を企てる見かけ以上に過激なテクストというべきかもしれない。
(詩人)







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