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評者◆内藤千珠子
距離を手がかりとして日常を見返す――さながら近代小説の時空が回帰したかのような「共喰い」(田中慎弥、『すばる』)
No.3034 ・ 2011年10月15日




 小説テクストは、世界に潜んだ可能性も、偏りあるからくりも、想像力を刺激する距離も、その重層性のうちに宿すだろう。田中慎弥「共喰い」(すばる)は、まさにテクストとしての小説が携えた効果を見事に伝える一篇である。表象が物語と共振し、登場人物と予定された物語の骨格の間には軋みが生じ、歴史性や記憶が連なって重力を帯びたトポスが現出する。さながら近代小説の時空が回帰したかのようだ。
 「川辺」に暮らす主人公の遠馬は、父と同じような男になるのではないか、という運命への不安を抱いている。父には「セックスの時、殴りつける」習性があり、暴力が原因で母の「仁子さん」は家を出た。その代わり、一年ほど前から「琴子さん」が同居している。川向こうに住む仁子さんは、戦争中空襲に遭い、右腕の手首から先がなく、金属製の義手をつけて魚屋を営む。遠馬は父の暴力を厭いながら、自分にも同じ傾向のあることを感じつつあり、恋人の千種の「馬あ君は殴ったりせん」という言葉を思い浮かべる一方で、父と同じやり方で女性と交わることを夢想し、いつしか千種にも暴力をふるってしまう。
 テクストの強度を最も印象深く証し立てるのは、男性器と重なるイメージを与えられた「鰻」だろう。作中、遠馬は初めて、鰻を釘針で釣り上げる。鰻の割けて崩れた頭は、主人公に性と結びついた異様な感触をもたらす。義手をはめた仁子さんが鰻を処理し、川で釣った鰻が大好物だという父がそれを食べる。だが、下水が流れ込む川で釣った鰻を食べるのは「不潔で危ないこと」で、この川辺でそれを食べるのは父以外にいない。すなわち父は、川辺のこの地域一帯の濁りや汚れを喰う存在で、暴力と節合した性的な力を象徴する記号に他ならないのだ。
 小説の語りはその彼を「父」と呼び続ける。語りの文法において、固有名で呼ばれる女性たちと、「父」という記号は鋭く対峙し、その間を主人公の遠馬が媒介する。妊娠した琴子さんは家を出ることを選び、千種は遠馬の暴力を許さない。琴子さんの不在を知って逆上した父が、「お社」で仲直りのため遠馬を待っていた千種をレイプする、といった物語展開の終わりに、父を殺そうとした遠馬を遮って、仁子さんが義手で父を突き刺し、暴力には終止符が打たれることとなる。
 血縁をめぐる物語は、血の表象を引き寄せる。社に通じる鳥居は、生理中はよけるべきものとして叙述されるが、仁子さんは「うちはもうのうなったけえ自由」と、毎日鳥居を通り、社に参っている。小説の末尾、警察に逮捕される仁子さんの、鳥居をよけた姿が目撃されると、彼女は閉経後にふたたび生理が始まった「すごい女」として噂話の主人公になり、その理解は主人公にも共有される。血の意味は一元的に決定できないが、おそらくは殺人による血の汚れを意識した行為が誤読され、その誤読が主人公に分かちもたれるというテクストの構造は、読後に強烈な異和を醸成せずにはおかず、「崩れた鰻の頭」のイメージを経由して、主人公を父殺しの物語からも、女の意志からも等しく遠ざけるだろう。その距離こそが、小説から放たれた批評性として読者の現在を射抜くはずだ。
 一方、中山智幸「リボルバー8」(文學界)の主人公は、自転車を盗まれたことを契機に、日常の外側に踏み出していく。彼は、自転車の破壊活動をするグループと接触し、自転車を徹底的に壊す快楽を体験する。これまでの生活からの距離が物語を始動させ、元に戻すことはおろか、元の姿を思い出すことさえできない自転車は、取り戻そうにもその方法を欠いた、空白化された日常の地平を暗く仄めかす。北野道夫「道連れ」(文學界)では、偶然同じ列車に乗り合わせた女と男が、ふとした会話を交わしたばかりに、互いの事情が語りのレベルで交錯し、非日常的な出来事の当事者になってしまう。あるいは、太田靖久「お神さん」(新潮)では、現実世界の空虚や閉塞感をデフォルメしたような架空世界が設定されている。これらの小説は、現代社会の膠着した生きにくさから派生した世界像をそれぞれ描き出し、距離を手がかりとして日常を見返す視線を与えてくれるだろう。
 編み物をする語り手の行為がテクストを紡ぐ石田千「きなりの雲」(群像)では、失われた恋の痛みから緩やかに回復していく過程で、語り手の視界からこぼれ落ちていた他者の優しさがひとつずつ拾われ、しみじみした趣が世界をつなぐ。「私」の背景にある、些細ではあるが、無数の思いやりや心遣いが関係を編みあげる。絶望や悪意を脱色するために必要な小さな交わりをどこまでも広げようと、テクストは物語が終わったその先に向かって編み連ねられていく。
(文芸批評)







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