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評者◆内藤千珠子
職場という環境を書くということ――負の構造を直視する力を与えてくれる「いこぼれのむし」(小山田浩子、『新潮』)
No.3014 ・ 2011年05月21日




 現実には「私」という一人称の視点から知ることができる世界は限られていて、私たちは、自分の視点からは決して見知ることができない部分のあることを知っている。しかしながら小説は、「私」からは見えないものを言語化し、読者の視界を延長するメディアとなりうるので、それを読むことは、世界の作られ方を知るための思考に通じているといえるだろう。
 一人一人を取り出してみれば、特筆するほど激しい嫌悪や敵意がむきだしになるというわけでもないのに、職場という環境には悪意が交差する冷たい圧迫が生まれやすい。小山田浩子「いこぼれのむし」(新潮)は、そうした原理を示しつつ、負の構造を直視する力を読者に与えてくれる作品である。幾人もの「私」が場を語るこの小説に最初に現れ、ゆるやかに全体をつなぐ役割を果たすのは、大企業に正社員として勤めているものの、職場で完全に浮いた存在となっている奈良由梨絵である。仕事ができず、地味で、かといってとりたてて特徴があるわけでもないのだが、彼女は女性社員の間でいじめの対象に近い扱いを受けている。その理由は、場に溶け込む契機をつかみ損ねたことにある。躓きのすべてを自分の落ち度として受け止める彼女は、何事にも引け目を感じ、怯えずにはいられない。理解ある夫がいるはずなのだが、家庭生活にも、家事分担や子どもを持つかどうかといった選択において見えにくい食い違いがあり、小さな違和感が積み重なっていく。夫や上司たち、正規や非正規で働く女性や男性の同僚たち。次々に現れる複数の語り手たちは、それぞれ自らの物語を語りながら、奈良由梨絵の生きる世界を立体化する。それは、いったん排斥される位置を与えられてしまったなら、もはや負の連鎖のなかに沈められるほかはないという苛酷な世界である。
 やがて彼女の心身は失調する。その失調は、語り手たちが視界の隅にとらえ、次第に前景化する「虫」に象徴されているのだが、物理的な不快感に結びつくその「虫」は、テクスト冒頭で奈良由梨絵が誤って口の中で噛みつぶしてしまった虫の卵に呼応している。「虫の卵のつぶつぶが歯の隙間や舌苔のくぼみに入り込みそうで、どんどん頭がそのことを増幅して、硬い歯ごたえが蘇ってきた。それをすでに私は噛み砕いていたのだと思うとめまいがした」。物語の展開にあわせてあたかも虫に同期したかのように表象されてゆく彼女は、周囲の目線の意味を自分なりにとらえた上で職場を辞め、奇妙な自由を手に入れる。そうして小説の末尾、かつての上司で、産休中の妊婦となった課長と病院で再会したとき、虫の卵にまつわるめまいと不快感は、虫に対する不思議な食欲に取って代わるのだ。負のかけらが連鎖して出来た苦痛を自らが喰い、消化し尽くすことは困難だが、彼女の空腹感は、「虫」がもたらす気味の悪さに吸収されるのではなく、相対化して飲み込むための作法を教えてくれるといえそうだ。
 こうした観点に寄り添いながら、職場での逃れがたい位置関係から生じた軋轢や不快感そのものを生きる女性の視界を描いた荻世いをら「頭痛のしおり」(文學界)を比べ読むと、場を構成する負の力学はより鮮明化するだろうし、また、ワールドカップ出場をかけた日本代表の一戦をめぐる謎に、複数の視点から解答が与えられる構図をもった伊坂幸太郎「PK」(群像)では、現実と虚構の間を溶解させ、世界のしかけをフィクショナルな力によって希望ある方向へ導こうとしているのが読まれるだろう。
 世界を突き刺す差別の構造を、一般的な目線を三回くらい回転させたような視界のなかに描き出したのが、山崎ナオコーラ「ニキの屈辱」(文藝)だ。才能ある若い女性写真家ニキと、彼女のアシスタント加賀美の二者関係が、さわやかな濃密さのなかに描かれる。テクスト上には、労働環境のなかの上下関係と恋愛の強弱関係が重なった二人の物語が、劣位に置かれた男性視点人物のまなざしを通して露わになる。「女の子」と呼ばれてしまうことを嫌うニキが味わうのは、働く女性を取り囲む社会の差別構図である。彼女の自負と虚勢、弱音と傲慢を、部下として働き、その後恋人にもなる加賀美は、ニキより下位におかれた目線から可視化する。仕事の面でも恋愛でも、二人の力関係が逆転し、あるいは対等になったとき、失われたかけがえのなさは、過去の風景として定着する。あなたとわたしの関係は、なぜ二人の外側にある世界に邪魔されてしまうのか。写真やカメラの比喩を媒介にして書き留められているのは、世界の力関係に絡め取られながらも射抜き返す一瞬を掬おうとした言葉である。
 (文芸批評)







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