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評者◆杉本真維子
落ち葉踏みとペン
No.2947 ・ 2009年12月26日




 落ち葉を踏んで歩くのは久しぶりだった。ウェハースを齧るような軽い感触と音を、靴底にひびかせ、近所の公園を横切る。ふわっと足首まで落ち葉に埋もれてしまうのもいい。そのなかで軽く足踏みしてみると、腰のあたりまで舞い上がった落ち葉のなかを歩いていく自分がいる、いや、いない。でも、そんな影が、身体の周辺でたしかにうごいた。
 こういう影、うごき、気配みたいなものから、詩はやってくるのだと思うが、上記のようにほとんど誰にも語らないような些細な気づきなので、こうやってすぐに言葉にすることのほうがめずらしい。いつも何かを大量に忘れている気分が続いているのはそのせいだが、忘れることもまた、詩作の過程のひとつでもある。
 時間というフィルターによって、いったんろ過されて、もう一度浮き立ってきたもののほうが、書くべきものとして信じられる、という考え方がある。たとえば、イギリスの詩人・ワーズワースは、知覚時期と詩作までのあいだが長く、ときには30年以上の隔たりがあったりする(でも、こう言ってしまうと、特別なことではなく、誰もが時間的ギャップのなかで書いている。ただ、ワーズワースの場合はそれが彼の詩の表出の仕方と強く結びついているのだ)。
 とはいえ、忘れたきり、そのまま永遠に忘れてしまうことも多々あるので、要注意なのだけれど。私の場合は、時間のフィルターというよりも、推敲というフィルターが最初にうかぶ、そのなかに時間が入っている。取り出す、という考え方がすきで、知覚したものを網で濾して、表面に残ったものを指先でつかむような厳密さにあこがれ、彫刻のように詩をつくりたいと思ってきた。ところが、そのあこがれや、取り出す、という考え方はそのままに、もしも推敲しなかったら全然ちがう作品になっている、ということも、ほんの微かに、見逃せない、と感じるようになった。
 最近、詩を手書きしている。これは高校生以来のことなので、じつに20年?ぶり、自分にとっては信じられないような大変化だ。これまで、キーボードを打つ10本の指先と文字が、キーボードを打つという生活と文字が、私にとって密接なものだったので、書く=打つという感覚は身体化されたものだった。また、手書きだと、推敲作業が大変だと思っていたのだが、その危惧がほどよい緊張感をうんで、かえって一度書きですぱっと、気に入ったものが出来ることもある、と知った。
 やわらかい落ち葉の上を踏む。ちょうどそんな感じで、ペン先を紙の上に置く。それと合う感触の万年筆もみつけた。升目がある紙のほうが、一枡、一枡、決定されていくので、いっそう緊張感がでていいみたい。きっと何かあったのだ、指先かどこかに。







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