文学
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滝廉太郎の音が聞こえる
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書籍・作品名 : 廉太郎ノオト
著者・制作者名 : 谷津矢車 中央公論新社2019
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すすむA
58才
男性
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谷津矢車氏については〚三人孫市〛(2015)を読んで実力の程を知っているつもりだった。鉄砲鍛冶の知識がいまいちの上に、雑賀三兄弟の末弟重朝の行為に戸惑いを感じた。エンターテインメントは登場人物に謎が残るようではいけない、というのが私の主張である。本書も半信半疑で読みだしたが、そうした懸念は吹き飛んだ。
滝廉太郎の伝記小説は誰が書いても難しい。その生涯があまりにも短く際立った事件もない。しかもテーマが音楽という難物だ。映画ならともかく、文章で音を表すなんて至難の業ではないか。そう思ったのだが、著者は眼で音を聴かせるのに成功した。
たとえば廉太郎がベートーベン「月光」第一楽章を弾く場面。ベートーベンの指示はフットペダルを踏みっぱなしにすること。「......第二部に至る頃には背中に熱を持っている。第一部で続いていた三連符が彼のようにうねって微妙な変化を見せるここでも、わずかな力加減の調整が求められる。間違いはいつまでもハーモニーの異物として残るため、一音の処理を間違えただけでこの曲は破綻する。作曲者の意地悪さと、己の作り出した和音への信頼が見て取れる。額から伝う汗が顎にたまってゆくのも気にせず、ただただ作曲者の掌の上で鍵盤を叩き続けた」。瀧の音が聞こえる。
彼の演奏をいま聞くことは出来ないが、いまなお凄いと感じるのは彼の作曲である。数こそ少ないが、日本人の慣性にぴたりと収まり込んだ唱歌・歌曲は日本人が在る限り永遠に忘れ去られることはないだろう。その曲作りの様子も詳細に書き込まれている。類は友を呼ぶというが、彼を取り巻く友情が美しい。
廉太郎は竹田の小学校時代。誰も弾けるものがなく学校の物置に放り込んであったオルガンを見つけ、自分で運指を編み出し、教師に教えるほどになった。音への興味は若くして死んだ姉利恵が拙く弾く琴によってだった、と書かれる。天与の才能だった。反対する高級官吏の父を説得して、15歳という最年少で東京音楽学校に入学を果たす。当時の入学には年齢制限がなく30,40歳という学生もザラにいたというのにも驚く。その2/3が予科でふるい落とされた。グランドピアノは校内にたったの2台。男女別学。1台だけのピアノ練習室には女舎監がいて男女の交際を見張っていたと言うのも愉快。廉太郎は教会のアップライトピアノで腕を磨いた。クリスチャンになったのはそのせいだろうが、本書は深く触れない。音楽学校は高等師範学校に付属しており、学校の独立が教師たちの悲願だった。そのためのスターが必要だった。幸田延・幸姉妹、廉太郎、後に柴田(三浦)環がその役目を担うことが期待された。当時の音楽界事情も知れて興味深い。
その幸について、本書ではあくまでも自信過剰で強気な女と書かれているが、姉の延は廉太郎に「いや、幸のことだ。あまりに君に頼りすぎている」と謎めいたことを言う。それだけだが気になる。澤井信一郎監督の映画『わが愛の譜 滝廉太郎物語』(1993年)では、ベルリンで自信喪失になっている幸を、廉太郎がライプツィヒに招いて、演奏の特訓をするシーンがあるが、本書での幸はベルリンでも意気軒昂である。どちらが幸の真実に近いだろう。
15歳でピアノを始め、1901年22歳でライプツィヒ音楽大学に入学というのも、幼少からピアノを始めないと「もの」になれないと言われる昨今の業界では異例だが、ライプツィヒでは生徒の質が悪く授業も退屈だったと書かれる。優等生仲間に近づこうとすると「東洋の猿」のくせにと蔑まれた。これが真実だ。1884年に同じくライプツィヒに留学した森鴎外は多分に虚勢を張っていたのだろう。だが「頻繁な変調」という当時最新の作曲法を学んだ。
音楽学校の生徒は皆金持ちだった。学校は「才能なき者、環境なき者、運なき者、そして適切な努力なき者を容赦なく振るい落とし」た、と書く。物語はそれら豊かな学生たちとの対照に「新聞屋」と呼ばれる下請け記者の、元大名のお抱え三味線 師の息子で、自身も名奏者ながら時代の影響で落ちぶれ果てている男を登場させる。もちろん想像上の人物だ。彼は廉太郎の演奏を「児戯に等しい」とまで書いてさんざんに貶すが、最後に彼の妹が唱歌「お正月」を歌っているのを聞き、瀧の輝きがここにあったのが判ったと呟く最終シーンは良く出来ていた。
廉太郎はライプツィヒ音楽大学に入学した5ヶ月後の11月に結核を発症し、翌年10月帰国、03年6月に大分で亡くなった。死去前自らの手で楽譜の大半を燃やした。夭折の大作曲家は多いが、モーツアルトは35歳、シューベルトは31歳、ショパンは39歳だった。我々は彼らの膨大な作品を堪能することが出来る。滝廉太郎はどうか。あまりに速すぎる。絶筆となったピアノソナタ「憾」は彼自身の絶唱であるとともに、日本人全体の恨みでもあろう。
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